邪悪な魔道士が迷宮を構え、冒険者たちが財宝を求めて迷宮をさまよい、モンスターたちの咆哮が闇に轟いた中世も今は昔。  世界を揺るがす神魔の戦いを主神が制してから、世界から『不思議』は失われた。  そしてそれから数百年。今や押し寄せる近代化の波は、魔法やモンスターを地上から押し流し、往古には我が物顔で地上にのさばっていたモンスターを見ることはない。  そう、今は人間と科学の時代。  神と魔と人が剣を交えた血なまぐさい過去はきれいさっぱりと洗い流され、あらゆる種族はその在り様を変えた。  だがそれでも、『不思議』が死ぬことはない。  人々の心に冒険が、未知なるものへの探求心が灯火として燃え立つ限り、モンスターとダンジョンは決して世界から消えることはないのだ。  君の準備はいいだろうか? 未知なる世界の物語へと、旅立つ用意はできているか?  とはいえ、大荷物も複雑な手順も必要はない。君に必要なのは、どんな破天荒な物語でも笑って受け止める柔軟な意識だけだ。  ……ありがとう、準備はいいようだ。  それでは、新しい世界の礎となる迷宮の物語を、ここに語ろう。 =======================================             『ダンジョン運営、炎上中!!』 ======================================= 「暇なら裏山の様子を見てきておいでよ」  母さんがそう言ったのは、俺が今で頬杖を突きながら、分厚いテキストの文字をぼんやりと眺めていたときのことだった。 「あの、母さん。僕は今、試験のためのテキストを読んでいたところでですね……」 「何が試験のため、だい。どうせ頭に入ってやしないんだろう? 試験勉強してる振りをして時間を無駄にしてるだけだよ」  痛いところを突かれて、俺は顔をうつむけた。実際その通りだった……というかこの人は、相変わらず他人の細かいところをよーく見ている。  そんな不甲斐ない息子を23年間も扶養してきた母さんは、カラカラと笑って自分の背後を親指で指した。 「気分転換でもしておいで。紅葉のいいシーズンだよ、山の空気でも吸ってきな」  その拍子に、母さんの大きな胸が揺れた。……ホントでかいし、張りがあるな。  というか、ウチの母さんは若い。義理の母とかそういうわけではない、血が繋がったれっきとした血縁だし、本人が言うところを信じるなら今年で48歳になるはずだ。しかしとてもそうは思えないほど若く見える。せいぜい二十台半ば、俺と同世代くらい。妹と一緒に出歩いたら、姉妹にしか見えないほどだ。  極東人離れした赤毛は艶やかで、肩までで無造作に束ねられているのが、本人のよく言えば快活、悪く言えばいい加減な性格と相まって、ワイルドな印象を与えている。  とても3児の母親とは思えない。そのうちのひとりが、絶賛公務員試験浪人をキメている俺みたいな23歳ニートならなおのことだ。  ……就業する意思があるなら、ニートではない? なるほど、その通りだ。だが俺は実際には別に公務員になりたいわけではない。  やりたいことはない。なりたい職業もない。ただそれが不安で不安で、親にも心配されたくないから……だから親のすねをかじって公務員試験の勉強をしているフリをしている。つまりニートだ。なまじ真面目なフリしているだけに、余計笑えない。 「でも母さん、今は秋だよ」 「そうだね、たくさん木の実もなってるよ。さすがウチの土地神様はいい仕事するね」 「……イノシシが出るよね?」 「そうだね、冬眠前にたくさん食わなくちゃね。獣も大変だ」 「出くわしたらどうするのさ!?」  ウチの裏山にはイノシシが出る。特に秋口にもなると、餌を求めてあちこちをうろつき回るのだ。こいつがまたとても凶暴で、人間を見ると威嚇してくる。かくいう俺も子供の頃に襲われたことがあり、それからというもの秋の山に入るのがトラウマなのだ。 「イノシシなんて軽く吹っ飛ばしちゃえばいいだろ?」  母さんはウインクしながらばぁーん、と手でピストルを撃つ仕草をした。  ……ああ、この人ならできるかもな。身体能力が半端ないことは知ってる。あと48歳にもなってそのカワイイ仕草はやめろ。 「僕は母さんみたいな超人じゃないよ、イノシシに襲われたら死ぬよ!」 「あらそう? じゃあ準、一緒に行ってあげな」 「うん、いいよ。木刀取ってくるね」  俺たちのやりとりを居間のソファーに座って眺めていた弟が、すくっと立ち上がった。  ……こいつ、イケメンな対応しやがる。  いや、実際性格だけでなく、顔も全身これイケメンなのだ。立ち上がると均整のとれたスラリとした体つきが際立つ。そしてその顔立ちもまた、母親の遺伝子を全力で取り入れた整いぶりなのだ。そりゃもう女の子にモテるさ、モテまくりさ。  これで学校では風紀委員を務めており、剣道部に所属しているらしい。休日にもなると女の子と一日中遊びに出ており、街で親しげに会話しているのを俺も見たことがある。  なんでこの美少年が俺と兄弟なんだ、理不尽な。 「……あれ? 何で準がこの時間に家にいるんだ?」  あいつ高校生のはずなのにな。もしや今日はサボりか?  すると母さんは、憐れむような眼を俺に向けた。 「……今日は日曜日だよ?」 「………………」  ヤベェ。完全に曜日感覚なくなってる。在宅浪人怖い、というかニート生活怖い。このまま俺は時間の感覚を失い、社会からドロップアウトして生きていくのだろうか。 「いやいやいや、違うし。あいつ日曜はいつも留守だから、勘違いしただけだし」  母さんの目が冷たい。 「母さん、今週は火曜が祝日だっただろ? だから兄貴も勘違いしたんだよ。ほら、火曜日も部活で留守にしてたからさ」  自室から木刀を取って戻ってきた弟が、フォローしてくれた。こいつはイイ奴だ、いつも兄を立ててくれる。だがすまない弟よ、兄はお前が火曜日に部活で留守にしてたことも、火曜が祝日だったことも知らなかったよ……。 「と、ところで母さん。裏山を見に行くって言っても、どこを見てくればいいの?」  ウチの裏山は広い。だからといってウチがお金持ちの土地持ちってわけではない。この神浜市を治める土地神様から、ウチの家が山の管理を委託されているのだ。その見返りとして幾ばくかの管理費を受け取っており、目下のところサラリーマンの父さんの給料と、その管理費が家の収入なのだ……と母さんが教えてくれたことがある。その恩恵に浴している立場上、俺も中学生を過ぎた頃からたびたび山の管理を手伝っているのだ。 「ああ、そうそう。立ち入り禁止区域を見てきておくれ」 「立ち入り禁止区域? あのフェンスに囲まれたところ?」  基本的にウチの山は立ち入り自由だ。土地神様が豊穣神なので、山にはさまざまな果実や木の実が自然に実る。山の幸は神様の授けものなので、誰でも入って取っていいということにしているのだが……。 「今朝散歩してたら、フェンスに小さな穴が空いててね。何かが通ったみたいなんだよ」「……動物でしょ? ほっときゃいいじゃないか」  イノシシが穴を開けてたらどうするんだ。俺はヤツとご対面するのは嫌だぞ。 「それが、フェンスがきれいな円形にくりぬかれててね。工具を使った形跡がある」  なんだそれ。 「誰かが工具を持ち込んで、穴を開けて通ったってこと? でも小さな穴なんだろ?」 「でも兄貴、どこかのイタズラな子供が入ったのかもしれないよ」 「……ガキがわざわざ工具を持ち出して、こんな山のフェンスを開けるなんてことあるかねえ」  俺的には今の子供はもっぱら携帯ゲームでポケットなモンスター捕まえてる印象があるんだが、そんな酔狂な子供がいるだろうか。しかしモンスターの立場も凋落したもんだ、昔は地上に国すら作ってたっていうのにな。まあ俺自身も実物を見たことはないんだが。「だが仮に子供が入り込んでたら一大事だ。立ち入り禁止区域は知っての通り、崖とかあって危ないからね。アンタみたいに気分転換にひょいひょい入り込んでる奴ならともかく」  バレテーラ。  立ち入り禁止区域には高台があって、夜にはそこから市内が一望できる。そこがまた絶景で、俺を含めた幼なじみたちにとっての憩いのスポットなのだ。 「わかったよ、行ってみる。もしホームレスとかが住み着いてたら、それはそれで問題だし」 「うん、頑張っておいで。お風呂沸かしといてあげるからね」  頑張ってって何だよ。こっちは捕り物なんてないことを期待してるんだが。 「大丈夫だよ、兄貴。僕が付いてるから!」  そう言ってウインクする準。お前は本当にイイ奴だな。  立ち入り禁止区域に行ってみると、確かにフェンスにぽっかりと穴が開いていた。  ちょうど子供が屈んで入れるくらいのサイズに、金網が切り抜かれている。 「兄貴、これ子供の仕業なのかな?」  しゃがんで調べていた準は、形のいい眉をたわめた。 「何か気になるのか? 大人じゃくぐれないだろ、このサイズじゃ」 「子供の仕業にしては手際がよすぎる気がする」  確かに言われてみれば、切り抜き方がきれいすぎる。 「なるほどな。それに子供は力弱いもんな、工具を使っても金網をこれだけスパッときれいに切れないか」 「さすが兄さん、そうなんだよ。だからおかしいなって思って」  尻馬に乗っただけなのに、さすがとか言われるのは尻がむず痒い。俺はまず気付いたお前の方にさすがと言いたいよ。兄としてのメンツがあるから言わないけどさ。 「あと見て、これ。何か動物の毛が散らばってる」  準はしゃがみ込み、フェンスの下から茶色い毛を拾い上げた。 「犬でも連れてたのか?」 「そうかもしれない。でも、毛が散らばっているのはフェンスの下だけで、他のところには落ちていない」 「それはフェンスの穴を抜けるときに、地面や金網に擦れて落ちたんじゃないか?」 「そうだね。僕もそう思う。でも、四足の動物ならフェンスの下以外にもいくつか毛が散らばっていておかしくないはずなんだけど……何か引っかかるな」  なんだそれ。 「それじゃその動物とやらは、普段は二つ足で歩いてるんじゃね。たまたまフェンスの穴を潜ったから、毛がフェンスに引っかかって落ちたとかさ」 「やっぱりそう思う? さすが兄貴だ」  準はそう言って、にっこりと嬉しそうに笑った。  ……え。冗談で言ったのに。なんだそのオモシロ動物。 「ま、まあいいや。確かめてみればわかるさ。しかし準、お前なんか探偵みたいだな。なんかこういうの手馴れてるっていうか……」 「え? そんなことないよ、これくらい普通だよ」  爽やかなイケメンスマイルを浮かべる準。イケメンは何でもできるんだな。 「あ、あそこ見てよ、兄貴。あの地面の柔らかい部分、靴跡があるよ」  フェンスから獣道を歩くことしばし、準は地面の一点を指さした。そこは粘土質のぬかるみになっており、うっすらと靴跡が付いている。 「やっぱり動物じゃなかったか。子供サイズの靴跡だな」 「そうだね。体重も相当軽いよ」  確かにその通りだ、これまで落ち葉などを踏みしめた形跡はあったが、靴跡は見られなかった。  これで侵入者が子供ということは判明したわけだが、それにしてもなんだってこんな山に入ろうと思ったんだか。捕まえたらお尻ぺんぺんしてやろう。 「〜〜♪」  ……ん? なにか聞こえた気がする。鳥の声か? 「兄さん、これ……」  準がひそひそと声を上げ、こちらを窺っている。  わかってる。 「……歌声だな」  どこからか、ソプラノの綺麗な歌声が聞こえてきていた。  侵入者のものに違いあるまい。足音を立てないように、そろそろと歌声が大きくなる方に近付く。  しかしこんなところで一体何をしているんだ? 確かこの先は、岩肌があるだけの突き当りだったと思ったのだが……。 「〜〜♪」  歌声は岩肌の中にぽっかりと佇む、穴の向こうから聞こえてきていた。  ……穴? なんだこれ、この前までこんなのなかったぞ。 「兄さん」  準が警戒心も露わに、木刀を握りしめる。 「ああ。わかってる。あんな穴、なかったはずだ。これはちょっとただごとじゃなさそうだぞ」 「僕が見てくる」  そう言って近付こうとする準の肩を掴み、俺はゆっくりと頭を振った。 「俺が行く。お前は後ろに付いてろ」 「わかった」  準は素直に頷き、半歩下がって俺の右後ろにぴったりと付いた。  ……こういうときでも、お前は俺を立ててくれるんだな。 「兄さん、気を付けて」  木刀を構え、すぐにでも飛び出せる態勢で、準が声を掛ける。  俺はそれに頷きを返して、そろりそろりと謎の洞穴に近付き、そっと覗き込んだ。  中は明るい。どうやら侵入者が持ち込んだライトが灯されているようだ……。  そこにいたのは、小学校低学年くらいの幼い女の子だった。身長は120センチかそのくらいだろう。栗色の背中まで伸びた長髪をしている。小汚くくすんだジャケットにジーンズを履いており、しばらく風呂に入っていないことを思わせる。  一瞬このご時世に浮浪児かと思ったが、そうではないことは明白だった。人間の小学生の頭には、獣の耳は付いていないだろう。  少女は獣の耳をピクピクと動かしながら楽しそうに歌を口ずさみ、小さな手を壁に向けて掲げた。 「居間もできたことだし、次は遊び部屋を作るッス〜♪」  すると少女の手がポワッと橙色の光に包まれ、あろうことか岩肌がみるみる窪んでいく。瞬く間にそこに小さな通路が作られた。まるで見えない掘削人がそこにいて、少女の指揮に従ってサクサクと掘っているかのようだ。硬い岩肌を、砂山のごとくに。 「遊び部屋は……そうッスね〜。ちょっと遊び心を出して、ドーム型とかいいッスね」  少女がくるくると手を回すと、一緒に彼女の手の中の光が舞う。  すると見えない掘削人は、たちまちそこに通路の先を掘り進み、ドーム形の部屋を作り出すのだった。俺たちが唖然として見守る中、たちまち10平米ほどの部屋は完成した。 「うん! サイズはこんなもんッスね」  少女はムフーと満足げに鼻息を吹き出し、続いて赤い光を手の中に灯した。 「塗装……これはまたたまらぬ職人芸ッスよ」  少女が手を頭上に振ると、赤い光はふわふわと天井に舞った。  光はやがて天井にぴたりとくっつくと、なめらかに滑り始める。すると、光が通ったところにさあっと細かな砂がまとわりついた。どうやらあの赤い光は、通った後を砂壁にするようだ。 「ふんふんふ〜ん♪」  少女が指先で宙に何やら模様を描くと、赤い光はそれをトレースするかのように天井や壁を走り回る。そして富士山とスカイタワーを模した、見事な砂絵が部屋の新たな装飾となった。  まるで魔法でも見ているかのようだった。いや、正真正銘の魔法なのだ。数百年前に失われたという魔法を、この獣耳の少女は軽々と使いこなして、住居を築いている。 「我ながら……見事な出来栄えッス!!」  少女は出来上がったアートを居間から陶然と見つめ、そのまま背後に積み上げてあった藁にばふっと仰向けになった。藁の中から何やら取り出す。リンゴ。  しゃりっとそれを齧り、少女は感慨深げに呟いた。 「ここが……アッシの新たな城ッス……!」 「何がてめえの城だ!」  すぱこーーーーーーーーーーーーーん!!  俺の鉄拳が謎のケモミミの頭にスマッシュヒット! 16のダメージ!! 「あいたーーーーーーーーーーーっ!?」  ケモミミ少女は殴られた頭を押さえ、ゴロゴロと寝藁の中をのたうち回った。  かと思えば、がばっと飛び起きて涙目で俺を見上げてくる。 「な、何をするッスか! 何者ッスか! さてはアッシの新たな住居を奪いにきたッスね!? 人間はなんて恐ろしく耳聡い生き物なんッスか!!」 「お前こそ何者だ未確認生物」 「兄貴、それコボルトだよ」  俺の肩越しに、ケモミミを覗き込んだ準が言う。 「お!? アッシを知ってるっすか、なかなか見所あるッスね、人間!」 「コボルト? モンスターか?」  俺は顔をしかめた。洞窟や遺跡などのダンジョンがあれば、そこには勝手にモンスターが湧く。誰でも知っていることだ。地上から追いやられたモンスターたちは、ダンジョンの暗がりに人知れず居場所を求める。 「いや、コボルトはモンスターじゃないんだ」 「そうっす! 一緒にするなっス、コボルトは亜人ッス! モンスターと違ってちゃんと人権もあるし、働いて住居も借りられるッス! マイナンバーもあるッスよ!」  亜人か。いわゆる人間以外のマイノリティ種族のことだ。現在の世界を支配している主神は人間を守護しているが、そこに亜人は含まれていない。亜人はかつて主神によって駆逐された神々が作った種族だからだ。だから一応人権は与えられているが、その法的保護は薄い。この極東の国では、主神のお膝元である西欧諸国に比べて保護は厚いが……。 「つまり住所不定ホームレスというわけだな?」 「……まあそうとも言うッス。でもでも、ここに住居を新しく……」 「ここは俺たちが管理してる山なんだけど、そんな届け出もらってねえよ」  俺がそう言うと、ケモミミ少女はサーーーッと顔を青くした。 「ま、まさか……地主さん!?」 「地主そのものじゃないが、まあ土地の管理人だな」 「あわわわわわわわわわ」  ケモミミはぴょんとその場に居住まいを正すと、三つ指を突いて土下座をキメた。 「どうか警察には突き出さないでくれッス! お願いッス! この通りッス! 靴でもなんでも舐めるッス!! 神様仏様お代官様〜〜!!」  ガクガクと体を震わせ、可哀想なくらい頭を下げている。  傍らにいる準を見ると、肩をすくめて俺に任せる、という顔をした。  準。お前は兄を立てるけど、判断も押し付けてくるよな。割とイイ性格してるよ。 「……とりあえず、立て。一緒に来い」 「け、警察へ!? いや警察ならまだいいッスけど、保健所だけは勘弁ッスよ!?」 「ちげーよ」  俺は顔をしかめた。 「俺ん家の風呂だ。お前洗ってない犬の臭いがすんだよ」  文字通りな。