邪悪な魔道士が迷宮を構え、冒険者たちが財宝を求めて迷宮をさまよい、モンスターたちの咆哮が闇に轟いた中世も今は昔。  世界を揺るがす神魔の戦いを主神が制してから、地上から『不思議』は失われた。  そしてそれから数百年。今や押し寄せる近代化の波は、魔法やモンスターを地上から押し流し、往古には我が物顔で地上にのさばっていたモンスターを見ることはない。  そう、今は人間と科学の時代。  神と魔と人が剣を交えた血なまぐさい過去はきれいさっぱりと洗い流され、あらゆる種族はその在り様を変えた。  だがそれでも、『不思議』が死に絶えることはない。  人々の心に冒険が、未知なるものへの探求心が灯火として燃え立つ限り、モンスターとダンジョンは決して世界から消えることはないのだ。  君の準備はいいだろうか? 未知なる世界の物語へと、旅立つ用意はできているか?  とはいえ、大荷物も複雑な手順も必要はない。君に必要なのは、どんな破天荒な物語でも笑って受け止める柔軟な意識だけだ。  ……ありがとう、準備はいいようだ。  それでは、新しい世界の礎となる迷宮の物語を、ここに語ろう。 =======================================             『ダンジョン運営、炎上中!!』 ======================================= プロローグ  ぽつりぽつりと点在する魔術灯だけが照らす、ほの暗い迷宮の中。  迷宮の主が待ち受ける最後の関門を前に、3人の年若い冒険者が最後の調整を掛けている。  ひとりは煌々と燃える闘志を目に宿した、ショートカットの少女。まだ二十歳になるかならないかのあどけない顔立ちだが、弾けんばかりの快活さを感じられる。今、彼女は自分の剣や手袋、靴に不備がないかを念入りに確かめている。  そのどれもが、彼女が信頼を置く魔法の武具。いずれの武具にも青い文字で企業ブランドロゴが刻まれており、それらの製品がどの武具メーカーの工房で製造されたのかを示している。  ひとりは肩ほどまでもあるブロードソードを背負った、二十代前半くらいの青年。180cmほどの筋骨隆々とした立派な体躯の持ち主だ。それでいて黒縁の眼鏡を懸けており、どこか知的さも感じさせる。今は先ほどの戦闘でモンスターから負わされた手傷を、回復ポーションで補っている。  回復ポーションは今はやりのゼリータイプ。ボトルのキャップをねじり開けて中身のゼリーを吸うことで、精気がみるみる甦る。しかも軽食にもなって一石二鳥! ……とTVのCMは謳っていた。  最後のひとりは腰まで届く長い黒髪が印象的な、十代後半のローブ姿の少女。ショートカットの少女が太陽のような明るさを持つなら、こちらは月を思わせる神秘的な雰囲気を宿している。誰もがはっと目を引くような美少女ではないが、いつまでも見つめていたくなるような落ち着いた魅力の持ち主だ。彼女は今、ローブの中から取り出したスマホで、SNSに書き込んでいる。 『大ボスなう^0^/』  なおフォロワーは5人しかいない。もっと増えてほしいような、でも知らない人にフォローされるのは怖いような今日この頃である。 「……夕姫、お前緊張感ねえなあ……。こんなときにツイートかよ」  大剣を背負った青年が、呆れたようにローブ姿の少女の手元を見やった。 「燦を見てみろ、ボス戦前にちゃんと武器チェックしてるだろ。デキる冒険者ってのはこういうもんだぜ」 「賢悟兄さま、ご安心を。日ごろからちゃんと杖の手入れはしていますし、私はウィザードです。ファイターと違ってそうそう武器に不具合は出ませんから」 「あはは、私はちょっと武具の使い方が荒いからね。念には念を入れておこうかなって思って」  燦と呼ばれたショートカットの少女が、ぽりぽりと頬を掻きながら笑った。 「賢悟くんは大丈夫? 武器に不都合はない?」 「大丈夫大丈夫!」ファイターの賢悟は、大剣をまるでナイフでも扱うかのように、軽々と持ち上げてみせた。「な? ちゃんと発動してるだろ? もし不具合があるなら、俺なんてコイツの下敷きになってるぜ」  彼の言葉は正しい。得物にしているブロードソードは重さ100kgを越す代物だ。賢悟はそれをダンジョンまで持ち運ぶのに、カートを必要とした。もちろん電車で運べる代物ではないので、自宅からダンジョンまで運送サービスで届けてもらったのだ。  それがダンジョンの中なら、ソードに付与された『重力自在』の魔法により、振り上げるときにはナイフ並みに軽く、振り下ろすときには本来の重量以上の破壊力を発揮する。 「本当にダンジョンって不思議だよね。モンスターが暮らしてることもそうだけど、この中だと私たちも魔法の武器やすっごいスキルを使えるんだもん」  燦は巨大な剣を眺めながら、しみじみと言った。 「そうだな。だがほんの数百年前までは、モンスターもマジックアイテムも地上でブイブイ言わせてたって話なんだから……今から考えりゃとんでもない話だぜ」 「ダンジョンの中はまさしく異世界ですね。科学全盛の地上とはまったく異質です」  ウィザードの夕姫も、賢悟の言葉に頷く。  3人がしみじみとしたところで、迷宮のどこかから絶叫が聞こえてきた。どこかで冒険者がモンスターの犠牲になり、力尽きたようだ。まあ聞き慣れているので、今更3人がそれに怯えることもないが。そもそもダンジョンの中でいくらダメージを受けようが、それで死ぬことは絶対にないのだ。法律の定めるところによって、業者には死亡と怪我を防ぐための結界の設置が義務付けられている。 「……んじゃそろそろ行きますか。後から追いついてきた連中に、お宝を横取りされちゃかなわねえからな」 「今回は先着到達者から豪華景品だもんね。スポンサーからのボーナスももらえるそうだし」 「頑張りましょう。私、ほしい本がありますから」  3人は頷き合うと、ボスの待つ最深部へと足を踏み入れた。  ボスの間では、巨大な牛頭の魔物が彼らを待ち受けていた。5メートルはあろうかという、高い天井すれすれに座する首から、禍々しさを感じさせる赤い瞳で侵入者を見下ろしている。その首から下は全身が分厚い筋肉の鎧に覆われ、あたかも筋肉繊維の一本一本が鋼で編まれているかのよう。荒い呼気はまるで蒸気機関から排出される熱煙と思わんばかり。 冒険者ならば誰もが知る、その名も高きミノタウロス。この極東から遥か遠い島に伝わる神話の怪物が、挑戦者たちの前に立ちはだかる。  3人は部屋に飛び込むやいなや、3方向に散らばった。分散した3人の動きを追おうと、ミノタウロスはぎょろぎょろと瞳を慌ただしく動かす。  まとまって行動すると、彼のモンスターは巨大な戦斧で全員まとめて薙ぎ払ってくる。これまでの度重なる苦い敗戦から、3人は対処法を分散戦術に見出していた。 「短期決戦で勝負を付けるぞ! 夕姫!」 「はい!」  賢悟の声を受けて、夕姫が杖にストックされていた魔法を解き放つ。今どきのウィザードワンドは、あらかじめ詠唱した魔法をストックして瞬間発動することが可能だ! 「『アクセラレーション』!!」  夕姫の放った加速魔法が3人の体を包み込み、目に見えて走る早さが激しくなる。さしものミノタウロスといえど、魔法の加護を受けた手練れ3人を追い切れない。  だがミノタウロスも、そこは数々の冒険者と戦ってきた熟練者。最優先で狙うべきひとりに目標を定め、鋭い一撃を繰り出した。つまり3人の指揮官である賢悟だ。  鋼鉄の塊としか言いようのない巨大な戦斧が、賢悟の頭上に振り下ろされる。だが賢悟はそれを避けるどころか、あろうことかニヤリと唇を歪め頭上に大剣を掲げて受け止めた! 「頼んだ、夕姫!」 「了解です! 『ディフェンドグロース』!!」  夕姫の放った頑健の加護の光が、賢悟を包み込む。だがそれだけではミノタウロスの攻撃で一刀両断は避けられない。結界の効果で実際には死ぬことはないにしても、痛みまでは殺しきれないだろう。 「今だ! スキル『グラビティブレード』!!」  戦斧が剣に衝突する直前、賢悟はスキルを解放した。マジックアイテムである大剣の能力がフル稼働し、重力操作の魔法が賢悟の意思を実現する。ミノタウロスの戦斧を受け止める上側に重力、自身がいる下側に斥力を発動することで、その重い一撃に耐えたのだ! それでも勢いは殺しきれず、ビキっと音を立てて周囲の床に亀裂が走った。地上で言えばダンプカーの正面衝突を金属の盾で受け止めるようなもの、間違いなく命はない愚行だ。  それを愚か行動だと思ったのはミノタウロスも同じだった。まず避けるだろうと考えて、初撃の後に本命となる二段目の攻撃で斬り込むつもりでいたのだ。魔法の武具の加護があるとはいえ、まさか自分と力比べに挑むような人間がいるとは。  賢悟の意図をつかめず困惑の色を浮かべるミノタウロス。その攻撃をぎりぎりと受け止めながら、賢悟は笑いかけた。 「いいのかい、俺ばっか構ってて」 「……!!」  ミノタウロスは悟った、こいつは囮だ! 本命は――  そう思ったときには、本命が彼の目の前を走っていた。そう、まさしく『目の前』。  彼の首近くの地上4メートルの高さを、少女剣士が一直線に『空中を走って』突っ込んでくる! 「スキル『ロケットランナー』!!」  彼女の装備している靴は、空気の壁を蹴り進むスキルを発動するマジックアイテム。文字通り空中の見えない壁を魔法の靴で蹴飛ばして、燦は弾丸のような速度でミノタウロスの首に向けて飛びかかった。  どんな生き物でも首は致命傷に繋がる、ミノタウロスは戦斧から手を放し、少女を叩き落とそうと咆哮を上げて拳を振り上げた。燦の表情が、微妙に引きつる。  あわや衝突すると思われたそのとき、燦は見えない空中の壁を手で押して、右方向に跳んだ! 「スキル『コンフリクトウォール』!!」  彼女の手袋は、障壁となる力場を発動する武具だ。本来は敵のブレス攻撃などを防ぐための力場だが、燦はそれを自分の姿勢制御のために活用していた。ミノタウロスの拳を紙一重でかわしつつ、燦はさらに速度を上げる。  敵ながら見事、ミノタウロスは内心舌を巻いた。数々の冒険者、のみならず神代の英雄たちと戦ってきた彼だが、マジックアイテムをこのように使う相手は見たことがない。これが現代の人間か! 人の進歩とはこのことか!!  愉快な感情が湧き上がり、彼は知らず大笑を上げながら燦へと拳を振り上げた。一撃で倒されるつもりはない。かくなる上は、彼女の攻撃を耐えきった上で叩き落としてくれる! しかし、燦の行動はミノタウロスのさらに上を行った。空気を蹴りつけて突撃する彼女は、ミノタウロスの肩の上をすり抜けて飛翔を続ける。そして文字通りの肩透かしを食らって困惑する彼を見下ろしながら、燦は天井へと『着地』した。 「スキル『ブレードアロー』!!」  剣を正面に構えて天井を蹴りつけた燦が、光の矢となってミノタウロスの延髄へと降下する!!   さすがに首をはねられはしなかったが、凄まじい衝撃とともに刃が急所に振り下ろされ、ミノタウロスの意識が揺らぐ。  その彼の足元で、大剣を構え直した賢悟が不敵な笑みを浮かべていた。 「俺を忘れるなよ、親玉!」  飛びあがった賢悟の『グラビティブレード』が、今度こそ正規の使い方――数倍の重力を伴う、とてつもない重い一撃としてミノタウロスの腹部に突き刺さる。  ミノタウロスが大ダメージによろめくのを見て、賢悟と燦はすかさず飛びのいた。 「夕姫、トドメを!!」 「わかりました!」賢悟と燦がミノタウロスの注意を引いている間に、長い詠唱を終えていた夕姫がワンドの魔力を解き放つ。「『ファイアボール』!!」  夕姫の身長よりも高い、ミノタウロスの顔ほどもある巨大な火の玉がミノタウロスへと飛来し――そして着弾とともに炸裂した。  ずしぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃん…………!!!  肉の焼ける臭いを上げながら、ミノタウロスが崩れ落ちた。あまりの質量に、周囲に地響きを起こる。 「……勝った……?」  燦はその光景を、むしろ呆然として見つめていた。 「……ああ、勝った」賢悟がその呟きを肯定する。「俺たちは……勝ったんだ」  3人はしばし顔を見合わせ、やがてハイタッチで手を打ち鳴らした。 「やったああああああああああああああ! 勝ったぞ! ついに勝った! 挑むこと苦節13回、俺たちはついにミノタウロスのオッサンに勝ったぞおおおおお!!」 「やったね、ついにやった! 夢みたい!!」 「この瞬間を夢にまで見ました。徹底的な分析と対策の勝利です!!」  飛び跳ねて喜び合う3人の後ろで、ミノタウロスの遺体はぐずぐずと崩れていく。  やがて煙とともに遺体はマナとして迷宮に還元され……そして新しいミノタウロスがその場に降り立った。ただし身長は2メートルほどしかない。  ミノタウロスは牛頭の後ろに手をやり、燦に斬り付けられた延髄がある部分を撫でた。 「やれやれ、とうとう攻略されちまったか。お前ら大したもんだ」 「へへへ、どうだ! やってやったぜ! これで俺たちも中級冒険者だな!?」  勝ち誇る賢悟に、ミノタウロスは頷きを返した。 「ああ、俺が保証してやろう。さっきのマジックアイテムを駆使した戦術は見事だったぞ。よほど研究してきたとみえる。そして見事一番乗りだ、これからも頑張れよ」  そして、部屋の端の祭壇に置かれている宝箱を指さした。 「ほら、勝者の誉れだ、持っていけ。罠はかかっていないはずだ。お前らにとって価値のあるものが出るといいな」  宝箱の中身を回収して迷宮の外に出た3人を待っていたのは、時間制限トライアルを制覇した気鋭の冒険者への取材だった。  今回のトライアルの景品のひとつとして、3人も定期購読している『LEVEL-UP!』という冒険者向け雑誌への取材がなされることになっていたのだ。 「今回の冒険、お疲れさまでした! 見事トライアルを優勝したご感想はいかがですか?」  まだ年若い女性記者の質問を誰が答えるかでしばし揉めたが、結局チームのリーダーとして燦が答えることになった。 「えっと……本当に感無量です。私たち、これまで何度もミノタウロスさんに負けてきたんですけど、何度も対策を考えた結果、今日ようやく勝つことができました」 「なるほど。それではこの勝利を、誰に伝えたいと思いますか?」  今度は3人とも誰が答えるか、迷うことはなかった。今3人が伝えたいと願う相手は、ただひとりしかいなかったからだ。 「ここにいない私たちの4人目の仲間……赤間誠一郎くんにです」 ======================================== 第一話 「誠一郎、暇なら裏山の様子を見てきな」  母さんがそう言ったのは、俺が居間で頬杖を突きながら、分厚いテキストの文字をぼんやりと眺めているときのことだった。 「あの、母さん。俺は今、試験のためのテキストを読んでいたところでですね……」 「何が試験のため、だい。どうせ頭に入ってやしないんだろう? 試験勉強してる振りをして時間を無駄にしてるだけだよ」  痛いところを突かれて、俺は顔をうつむけた。実際その通りだった……というかこの人は、相変わらず他人の細かいところをよーく見ている。  そんな不甲斐ない息子を23年間も扶養してきた母さんは、カラカラと笑って自分の背後を親指で指した。 「だろうと思ったよ、誠一郎は昔から頭が煮えてるときの顔が変わらないね。紅葉のシーズンなんだから、山の空気でも吸ってきな」  その拍子に、母さんの大きな胸が揺れた。……ホントでかいし、張りがあるな。  というか、ウチの母さんは若い。義理の母とかそういうわけではない、血が繋がったれっきとした血縁だし、本人が言うところを信じるなら今年で48歳になるはずだ。しかしとてもそうは思えないほど若く見える。せいぜい二十台半ば、俺と同世代くらい。妹と一緒に出歩いたら、姉妹にしか見えないほどだ。  極東人離れした赤毛は艶やかで、肩までで無造作に束ねられているのが、本人のよく言えば快活、悪く言えばいい加減な性格と相まって、ワイルドな印象を与えている。  とても3児の母親とは思えない。そのうちのひとりが、絶賛公務員試験浪人をキメている俺みたいな23歳ニートならなおのことだ。  ……就業する意思があるなら、ニートではない? なるほど、その通りだ。だが俺は実際には別に公務員になりたいわけではない。  やりたいことはない。なりたい職業もない。ただそれが不安で不安で、親にも心配されたくないから……だから親のすねをかじって公務員試験の勉強をしているフリをしている。つまりニートだ。なまじ真面目なフリしているだけに、余計笑えない。 「でも母さん、今は秋だよ」 「そうだね、たくさん木の実もなってるよ。さすがウチの土地神様はいい仕事するね」 「……イノシシが出るよね?」 「そうだね、冬眠前にたくさん食わなくちゃね。獣も大変だ」 「出くわしたらどうするのさ!?」  ウチの裏山にはイノシシが出る。特に秋口にもなると、餌を求めてあちこちをうろつき回るのだ。こいつがまたとても凶暴で、人間を見ると威嚇してくる。かくいう俺も子供の頃に遭遇したことがある。それもただのイノシシじゃない、2メートルはある化け物で、山のヌシと呼ばれている。それからというもの、秋の山に入るのはトラウマになっているのだ。 「イノシシなんて軽く吹っ飛ばしちゃえばいいだろ?」  母さんはウインクしながらばぁーん、と手でピストルを撃つ仕草をした。  ……ああ、この人ならできるかもな。身体能力が半端ないことは知ってる。あといい歳こいてそのカワイイ仕草はやめろ。 「俺は母さんみたいな超人じゃないよ、山のヌシに襲われたら死ぬよ!」 「あらそう? じゃあ準、誠一郎と一緒に行ってあげな。アンタなら剣閃で追い返せるだろ」 「うん、いいよ。木刀取ってくるね」  俺たちのやりとりを居間のソファーに座って眺めていた弟が、すくっと立ち上がった。  ……こいつ、イケメンな対応しやがる。  いや、実際性格だけでなく、顔も含めて全身これイケメンなのだ。立ち上がると均整のとれたスラリとした体つきが際立つ。そしてその顔立ちもまた、母親の遺伝子を全力で取り入れた整いぶりなのだ。一言で言うと「毛並みがいい」というか、どこか高貴さや品の良さを感じさせる佇まい。中性的で爽やかな印象を周囲に振りまいている。  これで学校では風紀委員を務めており、確か剣道部に所属していると聞いた。実際、先日こいつが裏山で、3メートル先の的に遠当てを決めるのに立ち会っている。普通はそういった超人的なスキルは、ダンジョンなどのマナが豊富な環境でないと使えないはずなのだが……こいつは土地からマナを吸い上げる特殊な鍛錬により、地上での行使を可能にしている。兄の俺が言うのもなんだが、それなりの使い手でなければ不可能な芸当だ。  そりゃもう女の子にモテるさ、当然だ。休日にもなると女の子と一日中遊びに出ており、街で親しげに会話しているのを俺も見たことがある。  なんでこの血統証付きの美少年が、俺みたいな雑種と実の兄弟なんだ、理不尽な。 「……って、あれ? 何で準がこの時間に家にいるんだ?」  あいつ高校生のはずなのにな。もしや今日はサボりか? いや、準に限ってそれはないか。  すると母さんは、憐れむような眼を俺に向けた。 「……今日は日曜日だよ?」 「………………」  ヤベェ。完全に曜日感覚なくなってる。在宅浪人怖い、というかニート生活怖い。このまま俺は時間の感覚を失い、社会からドロップアウトして生きていくのだろうか。 「いやいやいや、違うし。あいつ日曜はいつも留守だから、勘違いしただけだし」  母さんの目が冷たい。 「違うよ母さん、今週は火曜が祝日だっただろ? だから兄さんも勘違いしたんだよ。ほら、火曜日も部活で留守にしてたからさ」  自室から木刀を取って戻ってきた弟が、フォローしてくれた。こいつはイイ奴だ、いつも兄を立ててくれる。だがすまない弟よ、兄はお前が火曜日に部活で留守にしてたことも、火曜が祝日だったことも知らなかったよ……。 「と、ところで母さん。裏山を見に行くって言っても、どこを見てくればいいの?」  ウチの裏山は広い。だからといってウチがお金持ちの土地持ちってわけではない。この神浜市を治める土地神様から、ウチの家が山の管理を委託されているのだ。その見返りとして幾ばくかの管理費を受け取っており、目下のところサラリーマンの父さんの給料と、その管理費が家の収入なのだ……と母さんが教えてくれたことがある。その恩恵に浴している立場上、俺も中学生を過ぎた頃からたびたび山の管理を手伝っているのだ。 「ああ、そうそう。立ち入り禁止区域を見てきておくれ」 「立ち入り禁止区域? あのフェンスに囲まれたところ?」  基本的にウチの山は立ち入り自由だ。土地神様が豊穣神なので、山にはさまざまな果実や木の実が自然に実る。山の幸は神様の授けものなので、誰でも入って取っていいということにしているのだが……。 「今朝散歩してたら、フェンスに小さな穴が空いててね。何かが通ったみたいなんだよ」 「……動物でしょ? ほっときゃいいじゃないか」  イノシシが穴を開けてたらどうするんだ。俺はヤツとご対面するのは嫌だぞ。 「それが、フェンスがきれいな円形にくりぬかれててね。工具を使った形跡がある」  なんだそれ。どこの暇人の仕業だよ。 「誰かが工具を持ち込んで、穴を開けて通ったってこと? でも小さな穴なんだろ?」 「でも兄さん、どこかのイタズラな子供が入ったのかもしれないよ」 「……ガキがわざわざ工具を持ち出して、こんな山のフェンスを開けるなんてことあるかねえ」  俺的には今の子供はもっぱら携帯ゲームでポケットなモンスター捕まえてる印象があるんだが、そんな酔狂な子供がいるだろうか。しかしモンスターの立場も凋落したもんだ、昔は地上に国すら作ってたっていうのにな。まあ俺自身も実物を見たことはないんだが。 「だが仮に子供が入り込んでたら一大事だ。立ち入り禁止区域は知っての通り、崖とかあって危ないからね。アンタみたいに気分転換にひょいひょい入り込んでる奴ならともかく」  バレテーラ。  立ち入り禁止区域には高台があって、夜にはそこから市内が一望できる。そこがまた絶景で、俺や準を含めた幼なじみたちにとっての憩いのスポットなのだ。 「わかったよ、行ってみる。もしホームレスとかが住み着いてたら、それはそれで問題だし」 「うん、頑張っておいで。お風呂沸かしといてあげるからね」  頑張ってって何だよ。こっちは捕り物なんてないことを期待してるんだが。 「大丈夫だよ、兄さん。僕が付いてるから!」  そう言ってウインクする準。お前は本当にイイ奴だな。  立ち入り禁止区域に行ってみると、確かにフェンスにぽっかりと穴が開いていた。  ちょうど子供が屈んで入れるくらいのサイズに、金網が切り抜かれている。 「兄さん、これ子供の仕業なのかな?」  しゃがんで調べていた準は、形のいい眉をしかめた。 「何か気になるのか? 大人じゃくぐれないだろ、このサイズじゃ」 「子供の仕業にしては手際がよすぎる気がする」  確かに言われてみれば、切り抜き方がきれいすぎる。 「なるほどな。それに子供は力弱いもんな、工具を使っても金網をこれだけスパッときれいに切れないか」 「さすが兄さん、そうなんだよ。だからおかしいなって思って」  尻馬に乗っただけなのに、さすがとか言われるのは尻がむず痒い。俺はまず気付いたお前の方にさすがと言いたいよ。兄としてのメンツがあるから言わないけどさ。 「あと見て、これ。何か動物の毛が散らばってる」  準はしゃがみ込み、フェンスの下から茶色い毛を拾い上げた。 「犬でも連れてたのか?」 「そうかもしれない。でも、毛が散らばっているのはフェンスの下だけで、他のところには落ちていない」 「それはフェンスの穴を抜けるときに、地面や金網に擦れて落ちたんじゃないか?」 「そうだね。僕もそう思う。でも、四足の動物ならフェンスの下以外にもいくつか毛が散らばっていておかしくないはずなんだけど……何か引っかかるな」  なんだそれ。 「それじゃその動物とやらは、普段は二つ足で歩いてるんじゃね。たまたまフェンスの穴を潜ったから、毛がフェンスに引っかかって落ちたとかさ」 「やっぱりそう思う? さすが兄さんだ」  準はそう言って、にっこりと嬉しそうに笑った。  ……え。冗談で言ったのに。なんだそのオモシロ動物。 「ま、まあいいや。確かめてみればわかるさ。しかし準、お前なんか探偵みたいだな。なんかこういうの手馴れてるっていうか……」 「え? そんなことないよ、これくらい普通だよ」  爽やかなイケメンスマイルを浮かべる準。イケメンは何でもできるんだな。 「あ、あそこ見てよ、兄さん。あの地面の柔らかい部分、靴跡があるよ」  フェンスから獣道を歩くことしばし、準は地面の一点を指さした。そこは粘土質のぬかるみになっており、うっすらと靴跡が付いている。 「やっぱり動物じゃなかったか。子供サイズの靴跡だな」 「そうだね。体重も相当軽いよ」  確かにその通りだ、これまで落ち葉などを踏みしめた形跡はあったが、靴跡は見られなかった。  これで侵入者が子供ということは判明したわけだが、それにしてもなんだってこんな山に入ろうと思ったんだか。捕まえたらお尻ぺんぺんしてやろう。 「〜〜♪」  ……ん? なにか聞こえた気がする。鳥の声か? 「兄さん、これ……」  準がひそひそと声を上げ、こちらを窺っている。  わかってる。 「……歌声だな」  どこからか、ソプラノの綺麗な歌声が聞こえてきていた。  侵入者のものに違いあるまい。足音を立てないように、そろそろと歌声が大きくなる方に近付く。  しかしこんなところで一体何をしているんだ? 確かこの先は、岩肌があるだけの突き当りだったと思ったのだが……。 「〜〜♪」  歌声は岩肌の中にぽっかりと佇む、穴の向こうから聞こえてきていた。  ……穴? なんだこれ、この前までこんなのなかったぞ。 「兄さん」  準が警戒心も露わに、木刀を握りしめる。 「ああ。わかってる。あんな穴、なかったはずだ。これはちょっとただごとじゃなさそうだぞ」 「僕が見てくる」  そう言って近付こうとする準の肩を掴み、俺はゆっくりと頭を振った。 「俺が行く。お前は後ろに付いてろ」 「わかった」  準は素直に頷き、半歩下がって俺の右後ろにぴったりと付いた。  ……俺がダメになっちまっても、お前は俺を立ててくれるんだな。 「兄さん、気を付けて」  木刀を構え、すぐにでも飛び出せる態勢で、準が声を掛ける。  俺はそれに頷きを返して、そろりそろりと謎の洞穴に近付き、そっと覗き込んだ。  中は明るい。どうやら侵入者が持ち込んだライトが灯されているようだ……。  そこにいたのは、小学校低学年くらいの幼い女の子だった。身長は120センチかそのくらいだろう。栗色の背中まで伸びた長髪をしている。小汚くくすんだジャケットにジーンズを履いており、しばらく風呂に入っていないことを思わせる。  一瞬このご時世に浮浪児かと思ったが、そうではないことは明白だった。人間の小学生の頭には、獣の耳は付いていないだろう。おまけにジーンズのお尻の上あたりには穴が空いており、髪の毛と同じ栗色のふさふさとしたしっぽが揺れていた。  少女は獣の耳をピクピクと動かしながら楽しそうに歌を口ずさみ、小さな手を壁に向けて掲げた。 「居間もできたことだし、次は遊び部屋を作るッス〜♪」  すると少女の手がポワッと橙色の光に包まれ、あろうことか岩肌がみるみる窪んでいく。瞬く間にそこに小さな通路が作られた。まるで見えない掘削人がそこにいて、少女の指揮に従ってサクサクと掘っているかのようだ。硬い岩肌を、砂山のごとくに。 「遊び部屋は……そうッスね〜。ちょっと遊び心を出して、ドーム型とかいいッスね」  少女がくるくると手を回すと、一緒に彼女の手の中の光が舞う。  すると見えない掘削人は、たちまちそこに通路の先を掘り進み、ドーム形の部屋を作り出すのだった。俺たちが唖然として見守る中、たちまち10平米ほどの部屋は完成した。 「うん! サイズはこんなもんッスね」  少女はムフーと満足げに鼻息を吹き出し、続いて赤い光を手の中に灯した。 「塗装……これはまたたまらぬ職人芸ッスよ」  少女が手を頭上に振ると、赤い光はふわふわと天井に舞った。  光はやがて天井にぴたりとくっつくと、なめらかに滑り始める。すると、光が通ったところにさあっと細かな砂がまとわりついた。どうやらあの赤い光は、通った後を砂壁にするようだ。 「ふんふんふ〜ん♪」  少女が指先で宙に何やら模様を描くと、赤い光はそれをトレースするかのように天井や壁を走り回る。そして富士山とスカイタワーを模した、見事な砂絵が部屋の新たな装飾となった。  まるで魔法でも見ているかのようだった。いや、正真正銘の魔法なのだ。数百年前に表社会から失われ、科学に取って代わられたという伝説の技術を、この獣耳の少女は軽々と使いこなして、住居を築いている。 「我ながら……見事な出来栄えッス!!」  少女は出来上がったアートを居間から陶然と見つめ、そのまま背後に積み上げてあった藁にばふっと仰向けになった。藁の中から何やら取り出す。……リンゴか?  しゃりっとそれを齧り、少女は感慨深げに呟いた。 「ここが……アッシの新たな城ッス……!」 「何がてめえの城だ!」  すぱこーーーーーーーーーーーーーん!!  俺の鉄拳が謎のケモミミの頭にスマッシュヒット! 16のダメージ!! 「あいたーーーーーーーーーーーっ!?」  ケモミミ少女は殴られた頭を押さえ、ゴロゴロと寝藁の中をのたうち回った。  かと思えば、がばっと飛び起きて涙目で俺を見上げてくる。 「な、何をするッスか! 何者ッスか! さてはアッシの新たな住居を奪いにきたッスね!? 人間はなんて恐ろしく欲深い生き物なんッスか!!」 「お前こそ何者だ未確認生物」 「兄さん、それコボルトだよ」  俺の肩越しに、ケモミミを覗き込んだ準が言う。 「お!? アッシを知ってるっすか、なかなか見所あるッスね、人間!」 「コボルト? モンスターか?」  俺は顔をしかめた。洞窟や遺跡などのダンジョンがあれば、そこには勝手にモンスターが湧く。誰でも知っていることだ。地上から追いやられたモンスターたちは、ダンジョンの暗がりに人知れず居場所を求める。 「いや、コボルトはモンスターじゃないんだ」 「そうっす! 一緒にするなっス、コボルトは亜人ッス! モンスターと違ってちゃんと人権もあるし、働いて住居も借りられるッス! マイナンバーもあるッスよ!」  亜人か。いわゆる人間以外のマイノリティ種族のことだ。現在の世界を支配している主神は人間を守護しているが、そこに亜人は含まれていない。亜人はかつて主神によって駆逐された神々が作った種族だからだ。だから一応人権は与えられているが、その法的保護は薄い。この極東の国では、主神のお膝元である西欧諸国に比べて保護は厚いが……。 「つまり住所不定ホームレスというわけだな?」 「……まあそうとも言うッス。でもでも、ここに住居を新しく……」 「ここは俺たちが管理してる山なんだけど、そんな届け出もらってねえよ」  俺がそう言うと、ケモミミ少女はサーーーッと顔を青くした。 「ま、まさか……地主さん!?」 「地主そのものじゃないが、まあ土地の管理人だな」 「あわわわわわわわわわ」  ケモミミはぴょんとその場に居住まいを正すと、三つ指を突いて土下座をキメた。 「どうか警察には突き出さないでくれッス! お願いッス! この通りッス! 靴でもなんでも舐めるッス!! 神様仏様お代官様〜〜!!」  ガクガクと体を震わせ、可哀想なくらい頭を下げている。  傍らにいる準を見ると、肩をすくめて俺に任せる、という顔をした。  準。お前は兄を立てるけど、判断も押し付けてくるよな。割とイイ性格してるよ。 「……とりあえず、立て。一緒に来い」 「け、警察へ!? いや警察ならまだいいッスけど、保健所だけは勘弁ッスよ!?」 「ちげーよ」  俺は顔をしかめた。 「俺ん家の風呂だ。お前洗ってない犬の臭いがすんだよ」  文字通りな。  家に戻ってくると、玄関先に靴が2組増えていた。親父と妹だ。揃って出かけていたらしい、相変わらず仲がいいな。 「ただいまー。おーい、穂香。ちょっと来てくれ」 「なーにー?」  奥からパタパタとスリッパの音を立てて、妹の穂香が走ってきた。  足音と同期して、赤いツインテールが上下に揺れる。花も恥じらう文系女子大生の穂香は、今年19歳にして未だツインテールをお召しになっている、なかなかに愉快な妹だ。だがこれがとても似合う。母さんの美貌をアレンジして受け継いだらしく、燃え立つような赤い髪に、あどけない童顔を備えているのだ。本人も自分の可愛さをわかっている節がある。  だが、こいつはあどけない顔に似合わぬとんでもない性格を秘めているのだが、それは今はいいだろう。 「風呂沸いてるよな? こいつ洗ってくれ」  俺が右手にぶら下げた獣系少女を差し出すと、穂香はパッと目を輝かせた。 「何この子! どこの子? このケモミミのアクセサリーもカワイイね〜♪」 「自前ッス!」 「喋った! 喋ると余計カワイイ〜」  女子大生が何でもかんでも「カワイイ」と呼ぶのは俺も知っている。大体それは「カワイイものをカワイイと思う私ってカワイイ」という姫ポーズなのだが、穂香のカワイイ好きは本物だ。大量のぬいぐるみをコレクションしており、部屋はぬいぐるみでぎっしりだ。たまに雪崩を起こして、隣の部屋から悲鳴が聞こえてくる。  そんな美意識を持つ穂香にとって、このコボルトの容姿はドストライクだったようで、早速抱き上げてスリスリと頬ずりしている。ああ、妹ながらとても愛らしいね。 「しかし穂香、お前そんなのに頬ずりしてもいいのか?」 「え、何? この子コボルトでしょ? 本物初めて見たけど、超カワイイ♪ もしかしてお兄ちゃん、人種差別主義者? ダメだよ、こんなにカワイイのに!」 「……そいつノミ持ってるぞ」 「にゃああああああああああああああ!!!!」  穂香は悲鳴を上げて、俺に向けてコボルトを放り出した。  しかし時すでに遅く、ノミは穂香に寄生先を移してしまったようで、穂香は服の上から脇のあたりをしきりに掻いている。 「だから家の中に上がらなかったのに」 「アンタねえ! そういうことは先に言いなさいよ!!」 「これから洗うのに、今移されようが同じだろ? じゃあ、よろしく頼む」  穂香はう〜〜と呻くと、色々と諦めたのかコボルトを抱き上げて、風呂場に消えていった。  準はそんな姉の様子を困った顔で見送りながら、 「……母さん、これがわかっててお風呂沸かしてたのかな?」 「かもな」  実の息子が言うのもなんだが、ウチの親は割と捉えどころがない。昔の写真を見ても今とまったく姿が変わっていないのもかなりおかしいのだが、思考の方も何を考えているのかわからないところがある。  ……変わり者だからこそ、公務員試験にもう1年挑戦したいっていう息子に、二つ返事でやりたいようにさせてくれるのか。彼らの信頼を裏切っている現状を考えると、胸が痛い。だからといって、今更就職活動をするのも何か億劫だ。情けない話だと思う。 「おう、帰ったかい」  母さんがエプロン姿で奥から出てきた。大きな金ダライを鍋つかみでつかんでいる。いかにも若奥様みたいな装いをしてるが、本当に歳を考えてほしい。 「お疲れさま、困った顔の穂香とさっきすれ違ったよ。侵入者はコボルトだったか」 「みんな知ってるんだな、コボルトって有名なの?」 「世間的な知名度はそれほどでもないんだけどね。まあ、とりあえずご飯を食べながら話そうじゃないか。あんたらは、ほら」  母さんは湯を張った金ダライと、タオル2組を持ち上げてにこっと笑った。  まあ野郎2人なら、玄関口で半裸で体拭いてもどうってことねえわな。 「うまいッスーーー!!」  食卓に付いたコボルトは、母さんが作ったアップルパイを凄まじい勢いで胃に収めた。1ホールあったアップルパイが、みるみるうちにテーブルから消えていく。この小さな体のどこに入っているのか、という勢いだ。 「ああ……このほっくりしたリンゴの風味、サクサクのパイの食感……これはまさに神域の味覚! 神の御業に違いあるまいッス!!」 「そこまで褒められると照れるね。まだまだいっぱいあるよ、たんとお食べなさい」  母さんはニコニコと笑って、オーブンからさらなるアップルパイを取り出した。コボルトは瞳を輝かせ、今にも絶頂せんばかりだ。 「わーーーーーーいッス!!」  母親がホームレス亜人を餌付けしているのを見ながら、俺は味噌汁を啜った。 「どういうつもりなんだ、母さん。そんな不法侵入者にご飯をふるまうなんて」 「えー? いいじゃない、カワイイし」  穂香はコボルトが夢中でパイを頬張るのを楽しそうに眺めつつ、無責任なことを言った。  そんな俺の視線にようやく気付いたのか、コボルトは椅子の上に正座して深々と頭を下げた。 「もごもがふにゃしゃくしゃく」 「食ってからしゃべれ」  ごくん。 「失礼。自分、コボルト族のルゥと申す者ッス。この度は黙って敷地に侵入したのを咎めるどころか、こうしてお風呂や食事までお恵みいただき、何とお礼を申し上げればいいか。一家の皆様のご厚情にただただ痛み入り、盗人同然の我が身の不甲斐なさに恐縮するばかりッス」  こ……こいつ見た目に反して、難しい言い回しをすらすら駆使しやがる!? なんなんだお前、渡世人か!?  俺がひそかに戦慄していると、それまで黙って様子を見ていた親父が口を開いた。 「コボルトか。『生きる土木機械』との異名を持つ種族の方だな。建築工学についての天性を持ち、土木魔法に秀でると聞く。マナが豊富な土であれば、手をかざすだけで大穴を開けることすら可能とか。しかも燃費がよく、好物のリンゴだけを食べて生きていけると聞く」 「ご存じでしたか」 「うむ。だがコボルトはその特性から人権侵害を受けることも甚だしく、悪質な土木会社では薄給で長時間こき使われることもあるとか」  うちの親父は苦み走った50代、商社の部長職を務めている。普段は寡黙であまりしゃべらず、テーブルに座って家族をただ見つめるばかりだが、だからといって存在感がないわけでは決してない。というか、気配がただ者ではないのだ。同じ部屋にいたら、絶対に存在に気付くこと請け合い。  見た目的には地味顔ではあるがダンディな雰囲気を漂わせており、残念ながら母の美形を受け継がなかった俺としては、ぜひ将来的には親父に似ていきたいと願う次第である。ちなみに穂香いわく、「目つきだけはよく似てるね」とのこと。……うちの親父、ぶっちゃけかなり目つきがキツい方だと思うんですがね。  そんなダンディ50代の父に問われ、コボルト……ルゥは深くうなだれた。 「その通りッス。前に務めてた職場のことを悪く言いたくはないッスが、お給料を半年払ってもらえないまま、会社が潰れてしまったッス」 「なんだって!?」  俺が驚きの声を上げると、ルゥは慌ててふるふると手を振った。 「あ、でも、会社が苦しいのはアッシもよくわかってたんスよ。社長さんが月の終わりになると、泣きながら頭を下げるんス。もう一月だけ待ってくれって。泣きながらお願いされちゃ、仕方ないじゃないッスか。それにほら、アッシたちコボルトは、リンゴさえあれば生きていける省エネ生物ッスから」  ルゥはえへへ、と肩をすくめながら笑った。 「毎日食べるだけのリンゴはもらえるし、アッシは建築だけが生き甲斐ッスから。好きなお仕事をやらせてもらえるんだ、それ以上は望まないようにしようって、毎日会社で暮らしてたッス」 「仕方ないわけあるかよ! お前、それどう考えたって利用され……」 「黙っていろ、誠一郎」  椅子を蹴って立ち上がった俺を、親父が制した。  ……確かにわかる。俺が今ここで怒ったところで、どうにもならないことだ。とっくにすべては終わったことなのだから。だが、それにしたってひどいじゃないか。他人の好意を食い物にして、利用するだけして捨てるなんて……いくら亜人だって、そんなひどい行為が許されていいのか。 「だってあんまりだろ!? お前だってそうだよ、ルゥ! 何でそんなこと、ヘラヘラ笑って言えるんだよ。何でそんなのひどいって言わなかったんだよ!」 「……仕方ないッス。だってアッシは、亜人ッスから」 「………………」  ルゥは受け入れていた。とっくにこの世の不条理に慣れきっていた。  こいつは、これまでどんな人生を歩んできたのだろうか。少なくとも、楽しい日々ではなかったはずだ。さっきこいつを捕獲したとき、なんて言った? 「保健所だけはやめてくれ」と言ったのだ。こいつを本当に警察や保健所に突き出したらどうなるだろうか。犬猫ではあるまいし殺されることはならないだろうが、少なくとも愉快なことにだけはならないだろう。  西洋には亜人たちが統治する亜人領と呼ばれる国があり、そこでは人権が保障されているそうだが、遠く離れた極東の国にはその威光も及ばない。亜人領の人権団体が、各国の亜人の人権を向上せよと主張しているのはよく聞くが、実際にはこのザマである。 「コボルトは種族の本能として、建築を愛する習性がある。野生にあっても、暇つぶしに立派な建物を建ててしまうほどだというからな……そこを利用されれば、やむなしか」 「面目ないッス。仕事も失い、住んでいた会社も追われ、いっそすべてを捨てて野に帰ろうかとこちらの山に潜り込んだ次第ッス」  そういえば、さっき見た時も、岩肌に自分の家を作っていたな。あれがコボルトにとっての自然の生態ということなのか。 「どうだ、ウチの山の土は? 気に入ったかい?」  母さんが聞くと、ルゥは顔を輝かせて何度も頷いた。 「それはもう! こんなにも豊富にマナが含まれている土地は見たことがないッス!! この土なら何だって作れるッスよ!! 天に届く塔でも、地の底に続く洞穴でも、自分やって見せるッス!! あ……」  そこまでまくしたててから、ルゥは恥ずかしそうにうつむいた。 「申し訳ないッス、ここはみなさんが管理する土地ッスもんね。もう勝手に穴掘ったりしないッス。自分、もう出てくッスから……このご恩、生涯忘れないッス」 「よし」  母さんは大きく頷くと、腰を浮かせかけたルゥを抱き上げて、自分の膝に乗せた。 「この子は今日からウチの子だ」 『ええええええええええええええええええええええええ!?』  俺と穂香と準の声が見事にハモった。 「世話は誠一郎がするように。拾ってきた者には責任があるからな」 「いやいやいやいやいや、何言ってんの!?」  俺が抗議の声を上げると、親父と母さんは小首を傾げながら顔を見合わせた。なんだそのジェスチャー!? 小芝居か畜生!! 「だって今、この子の話を聞いてお前怒っただろ?」  いかにもきょとん、とした顔で親父が俺の目を見てくる。 「いや、確かに怒ったけど……」 「着の身着のまま、無一文でほっぽりだすことはお前にとって『ひどい』んだろう? そのお前が、同じことをこの子にするというのか?」 「それは散々利用して捨てることがひどいのであって……」 「だが結果的には同じことだろう? 我々がこの子を見捨てたら、また路頭に迷うことは目に見えているじゃないか。それとも警察や保健所にでも突き出すか? ほっぽりだすくらいなら、何で一度は拾ってきたんだ?」  い、痛いところを突きやがって……! 確かにそれはそうだ。一旦手を差し伸べておいて、都合が悪ければ前言を翻すなんて、人としてみっともないことはしたくない。  ちらりとルゥに目をやると、ルゥは「保健所怖いッス嫌ッス」とブルブル震えている。お前もお前で、どんだけ保健所怖いんだよ。……くそ、仕方ねえ。  俺は震えているルゥを見下ろしながら、吐き捨てるように呟いた。 「わかったよ……責任とればいいんだろ!」 「さすが我が息子だね。実に博愛精神に溢れている!」  我が意を得たり、というようにニッコリと笑顔を浮かべる母さん。くそっ、なんて奴らだ! 論理の隙を的確に突いて、夫婦揃って全力で息子をハメにきてるじゃねえか! お前らそんなにそのホームレスケモミミを飼いたいか!? 「決まりだ! ようこそ、我が家に!」 「やったあ! よろしくね、ルゥちゃん!!」  パンと小気味よく手を打ち鳴らす母さんに、ルゥに抱き着いて頬ずりセカンドムーブを敢行する穂香。うむうむと頷く親父。場はいきなりパーティモードだ。ただ準だけが「いいの?」というように俺の顔を困った顔で覗き込んでいる。準、この家で俺の味方はお前だけだよ。お前が妹なら、俺は穂香をスルーして速攻でシスコンになってた。  いや、まだだ! まだ逆転の手掛かりは残されているはず! 「待て! 我々はまだ一番大事なことを確認していない! そう、ルゥ本人の意思だ!」  俺は立ち上がり、最後の逆転にかけて拳を振り上げた。 「ルゥの意思を無視して事を進めることは、自由民憲の精神に反する! 自分の人生は自分で決められる、それが憲法のはず! さあルゥ、お前の正直な意思を告げるんだ! 突然家族だと言われても、お前だって困るよな! そういうのはもっと慎重に決めるべきだよな!?」  そうだって言え!!  俺が目でそう告げると、ルゥはうつむいて「アッシは……」と言いにくそうにもじもじし始めた。  そんな彼女を見て、ボールが足元に転がってきたサッカー選手のように絶妙なアシストを敢行するマイマザー。 「ウチの子になったら毎日アップルパイが食べられるし、毎日裏山に好きなだけ穴を掘っていいよ♪」 「これから末永くお願いするッスーーーーーー!!!」  一も二もなく大はしゃぎをしてうちの子になる宣言をかましたルゥを見て、俺は悟った。自分の人生を自分で決められるなんて、所詮は幻想なのだと。こいつ俺の気も知らないで……しっぽなんて全開で左右に振りまくってるじゃねえか。 「じゃあそういうことだから誠一郎、これからはこの子を新しい妹だと思って世話するように」 「……そういうのは穂香にやらせた方がいいんじゃないの、女の子同士だろ?」  すると穂香はニッコリと笑った。こいつ、こういうときの笑顔は母さんそっくりだ。 「私は大学と神社があるもの、兄さんは浪人で時間もあるでしょ?」  こいつは神社で巫女のバイトをしている。ああ悪かったな、どうせ俺はバイトひとつもしてないニートだよ。 「くっそ……裏山に穴なんて掘ったりして、もしもモンスターが住み着いたらどうする気だよ。それこそ保健所に連絡して、駆除してもらわないといけないんだぞ」  モンスターが好むダンジョンの条件とは、ずばりマナが豊富な土地である。モンスターの大好物は人間の精気なのだが、奴らは人間を襲わなくても、ダンジョンの中で暮らしているだけで土地からマナを吸収して生きていけるのだ。だから人が滅多に訪れることのなく、それでいて霊的に優れた秘境の洞窟など、モンスターの格好のねぐらだ。  この人口百万人の政令指定都市・神浜市は秘境などとは程遠いが、土地神様の恩恵ゆえにとても霊的に優れた土地だ。その中でも屈指の霊地となる山に大きな穴を掘らせるなんて、モンスターにはいどうぞ、ぜひ住んでくださいねと建売住宅を提供するようなものじゃないか。 「そこのところどう思ってんだよアンタたちは!」 「じゃあ、モンスターが住み着かないように、誠一郎が管理すればいいだろう。ルゥが満足するまで穴を掘ったら、ちゃんと埋めさせるように」 「それも俺任せか!?」 「だってアンタ、暇でしょ?」  交互に繰り出される両親の攻撃に、俺はがっくりと崩れ落ちた。  そう来たか。これまでホイホイとニートさせてくれた恩を、ここで返せと来たか。  段々実の両親が借金の取り立て人みたいに見えてきたわ。 「……親方、アッシはやっぱり迷惑ッスか?」  親方って俺のことか? お前と俺の間に既に労使関係が生まれているのか?  ……ま、いいか。俺は不安げに見つめてくるルゥの頭に手をやると、ぐしゃぐしゃと撫でた。  こうやって実家の手伝いっぽいことをしてれば、いくらか気が滅入ってくるのも落ち着くしな。何より穴を掘るっていっても、工夫は所詮このちび助ひとりだ。確かにこのちび助の手際は見ていたが、モンスターなんてそれなりの規模の洞窟や遺跡でもなければ住み着かないと聞く。毎日埋めてれば、どうってことないさ。 「ばーか、気にすんじゃねよ。連れて帰って来ちまったのは俺だからな、責任くらいサクッと取ってやるさ」 「……えへへ」  わしわしと俺に乱暴に頭を撫でられながらも、薄幸のコボルトは嬉しそうにはにかむのだった。  次の日、こいつを薄幸だなどと思った自分を全力で殴り付けたくなった。  母さんが弁当にアップルパイを作ったので、様子見がてらに届けてやろうと思ったのだ。秋口ながらとてもいい陽気で、ちょっとしたハイキング気分だった。抜けるように天高き秋空の下、ヒバリが声を上げて飛んでいくのがなんとも風流だ……などと呑気なことすら考えつつ。  思わずパイが入ったバスケットを取り落としたわ。  昨日こいつが穴を掘っていた丘など、影も形もなくなっていた。  代わりにあるのは、丁寧に舗装された見渡すばかりの壁面と、5メートルはありそうな西洋風の荘厳な門構え。壁面は大理石で舗装されており、品のよい威容を誇っている。そればかりか周囲には古代帝国風の彫刻が施された柱が、整然と並べられていた。まるで神殿のような佇まいだ。  俺が謎の建築物の圧倒的な存在感に絶句していると、ギイッと音を立てて門が開き、中から扉と比較してあまりにもちっぽけな影が姿を現した。 「フンフン……何かいい匂いがしてきたッス! あっ、親方!!」  ルゥが犬っぽく鼻を鳴らしながら、小走りでこちらに向けて走ってくる。 「何やらいい匂いがするそれは、もしやアッシの弁当ッスか!?」 「あ、ああ……。あの、ルゥ。こいつは一体……」 「ん? アッシの作品ッス! 穴を掘るだけだとつまんないッスから、外観にも凝ってみたッス!!」  バスケットに顔を突っ込んでパイを引っ張り出しながら、ルゥはなんでもないような口調で言った。 「ん〜、イイ匂い! わざわざアッシなんぞのために弁当を届けてくれるなんて、親方はいい人ッス! ありがとッス!! じゃ、いただいていいッスか?」  いやいやいやいやいやいや。 「待て、その前に説明をしろ。なんだこの建物は!?」 「何って、昨日アッシが住処にしようとしてた丘ッスけど。崩れたら困るんで、ちょっと丘全体に支柱とか入れて頑丈に補強して、見栄えもいいようにキレイにしたッス」  ……こいつが朝6時に部屋を出て、今は午前の11時半。  たった5時間と少しで、この大工事を仕上げた……だと? 「だってお前、そんな時間経ってないだろ!? しかもこの門は鉄製だし、壁や柱は大理石じゃないか? 一体どっから材料とか調達したんだよ!!」  するとルゥはあー……と何かを考える素振りを見せてから、俺を見上げてきた。 「親方はアッシの恩人だから、特別に見せてあげるッス」  そう言うと、ルゥは足元に落ちていた小石を軽く握った。刹那、掌から青い光が漏れ出し、すぐに収まる。次にルゥが手を開くと、小石は銀の塊に変わっていた。 「……え、なにそれ。今何をしたんだ!?」 「鉱物変換の魔法ッス。コボルトの中でも選ばれし者だけが使える内緒のテクッス! マナが豊富な土なら、大体の鉱物に変えることができるッスよ」  目の前でサクッと物理法則を乗り越えてみせたコボルトに、俺は戦慄した。  マジかよ。錬金術士が見たら卒倒すること請け合いの光景を目の当たりにしちゃったよ。 「も、もしかして土を鉱物に変えるとか朝飯前な感じ?」 「土に含まれるマナの量次第ッスけど、割と余裕ッス」  昨日寝る前にネットで調べたところによると、コボルトは古くから鉱山を荒らす亜人として鉱夫から忌み嫌われていたと聞く。人間が開いた鉱山にいつの間にか入り込み、勝手に坑道を増やしたり、迷宮に改造してモンスターを呼び込んだりと、鉱山を廃坑にせんとさまざまな悪さを働いてきたということだ。その悪さのひとつに、鉱脈を涸らすというのがあったが……。 「たとえ硬い岩盤があっても、簡単に掘りやすい土に変えられるんスよ!」えっへん、と薄い胸を張るルゥ。 「……コボルトってさ、山をこんな感じに改造したりするのはよくあることなのか?」 「まーそうッスね、コボルトは穴を掘ったり建物を作ったりしないと、ストレスが溜まって死んじゃう生き物ッスから。まあ山の中に穴を掘ると、たまに湧いてきたモンスターに追い出されたりもするんスけど。なんせアッシら、戦闘力は貧弱な生き物なので。落盤が起きても平気で帰ってこれるくらい、体は頑丈ッスけどね」  なんだそのHPと防御力に極振りしたステータス。もしかしてこいつ、人間なんぞよりも遥かにバイタリティに富んだ生き物なんじゃ……。 「その魔法、コボルトの選ばれし者が使えるって言ったな。誰でもは使えないんだな?」 「そうっす、アッシの一族だけッス! アッシはそんじょそこらの作業員コボルトとはちょいと違うッスよ、選ばれし現場監督の一族なんスから! なんと、図面も引けるんス!!」 「お前らの仲間内では、図面を引くこととクズ石を鉱石に変えることが同等の価値のスキルなのか?」 「親方、冗談きついッス。建物を効率よく、精緻に作れるんだから、図面引きの方が高度なスキルに決まってるじゃないッスか!」  得意満面にふんぞり返るルゥ。  ああ、こいつらって本当に建物を作ることしか頭にない生き物なんだな……。  しかもその材料も全部タダ。きっとこいつらにとって、根本的に金銭というもの自体が必要ないのだ。 「念のために聞くが、銀鉱石とその辺の石はどっちが高価かわかるか?」 「石に値段なんてあるんスか? そんなもん、変換すりゃ同じッスよね?」  やはりそうか。これでなんとなく伝承の真相がわかった。  この種族は今も昔も、土いじりして遊んでるだけだ。  コボルトは元来野山に暮らす種族で、ごく一部の少数派だけが人間の建築物に興味を抱いて都市部にやってくるのだという。おそらく伝承のもとになった鉱山には元々コボルトが住み着いており、人間に興味を抱いた個体が坑道に入り込んで『一緒に土遊びをして遊んだ』のだろう。よもや人間が、彼らにとって建築物の素材でしかない鉱石をわざわざ採掘しようとしているなんて思わなかったのだ。それどころか、鉱脈を土くれに変えたのだって、掘りやすくなるよう手伝ってやろうという親切心だったのかもしれない。 「……まさか金とかプラチナとか作れたりする?」 「できるッスけど」  ああ、コボルトを創造した名も知らぬ神様。この種族に人並みの金銭欲を与えないでくださって本当にありがとうございます。貨幣制度が根本的にぶっ壊れるところでした。  俺はルゥの前にしゃがみこみ、視線を合わせながら言った。 「よし、お前そのことは絶対に誰にも言うなよ。他人には絶対その魔法を使ってるところを見せちゃダメだ。誰かに聞かれてもそんなことできないって言え。それがお前たちのためだ、わかったな?」 「わ、わかったッス……なんか親方、目が怖いッスよ」  お前が自分の価値をこれっぽっちもわかってねえからだよ!  まったく、こいつが在籍してたっていう悪徳会社によくバレなかったものだと思う。バレていたら今頃貨幣偽造でもやらされて、間違いなく塀の中だろう。 「あのぉ……そろそろお弁当食べてもいいッスか?」  自分が綱渡りしていたという自覚がまったくないこの生き物は、俺を上目遣いで見ながらパイを所望した。尻尾がゆらゆらとせわしなく揺れ、こいつの我慢の限界を如実に表している。 「はぁ……いいよ。ほら、濡れタオル。手を拭いてから食えよ」 「ひゃっほーーーー! ラーンチターーーイム!!」ルゥはぶんぶんと勢いよく尻尾を振りながら、手を拭うのももどかしくアップルパイにかじりついた。「うーん、外側はサクサクで中はしっとり! 理想の焼き具合ッス、親方のママさんのパイは絶品ッスよ!!」 「知ってるよ」  夢中でパイを貪る姿は、どう見てもケモミミが生えただけの小学児童だ。自分の技術が使い方次第ですさまじい市場価値を生み出すことなど、知りもしないのだろう。というか悪徳土木会社の社長とやらは、こいつがいてよく会社を潰せたものだ。  俺は柱のひとつに近付き、しげしげと眺めた。大ざっぱにだが彫刻が施されており、設計から石の削り出し、彫刻までこれを手作業で一本一本手作業でやるとすれば、どれだけの期間が必要なのだろうと考える。昨日の魔法と同じ手順でやったのならば、こいつにとっては大した手間でもないのだろうが。 「まあさすがにびっくりしたが、外観だけで済んでよかった。これで中身も掘りまくりましたとか言われたら、確認するのも大変だからな」 「ふぇ? 中身を掘ってないなんて言ってないッスよ」  ……なんだと。  無邪気な顔でパイの最後の一口を頬張ったルゥは、舌を伸ばして手に付いたリンゴジャムを舐め取っている。そういえばこいつ、さっき門の向こうから出てきたが……。  動悸にすら似た胸騒ぎに襲われた俺は、「今すぐ中を見せろ!」と詰め寄った。  結論から言おう。  超本格的な迷宮がバッチリ1階分作られていた。  エントランスには噴水が設けられ、地下水を汲み上げて清涼感ある音を立てている。その奥には深い闇が横たわる回廊が広がり、ところどころにしつらえられた魔法の灯りが闇を照らしていた。回廊は未だに土壁だが、踏み入った先に広がっていた部屋は既に石壁による舗装が完成している。  さすがにこの規模になると頭の中だけで作るのではなく、図面が用意されており、それによると現在最奥部の階段を建造中なのだという。  そう告げたルゥは、飼い主のねぎらいを待つ犬のように、キラキラとした瞳で俺を見つめる。俺はニコッと笑みを浮かべて、それに応えた。 「今すぐ埋めろ」 「何でッスかああああああああああああああ!?」  抗議の声を上げる獣娘の頭を、スパーーーン!と音を立ててはたく。 「元々埋めるって話だっただろうが! こんなの完璧にダンジョン以外の何物でもないだろーが! モンスターが見つけたら嬉々として住み着くわ!! なんなの!? お前福祉事業団にでも所属してるの!? 身寄りのないモンスターに愛の手を差し伸べてるの!?」 「埋めるって言ったっスけど! でもでも完成まで待ってくれてもいいじゃないッスか!! これはまだ未完成なんッスよ、未完成のまま作品を壊すなんて職人にとって最大の悲しみなんスよ!! 夕方まであればこの階が完成するンす、それまで待ってッス!!」  こいつにとっては、この迷宮は幼稚園児が砂場で作ったお城と同程度のものらしい。まあ確かにその気持ちはわからなくもない。みんなと海辺で作っていた砂の城が、途中で波にさらわれて悲しい思いをしたことは俺にもある。 「わかるけど危ないだろーが! もしもモンスターが出たらどうすんだよ!」俺は少し鳥肌が浮かんだ二の腕を撫でた。「俺はダンジョンとかモンスターが大嫌いなんだよ! ダンジョンなんてもう絶対に入りたくねえんだ!」  するとルゥはきょとんとして、「閉所恐怖症ッスか? そうは見えないッスけど」 「そういうわけじゃないけど……」説明したくないな。 「いいから埋めろ、すぐ埋めろ」 「それはもったいない。こんなに素晴らしいダンジョンですのに。そちらのお嬢さんの仕事ぶりは大したものだと思いますが」 「…………」今の誰だ。  俺が弾かれたように背後を振り返ると、立派な体躯の壮年の男性が微笑みを浮かべながらこちらを見つめていた。彫りが深く上品な顔立ちで、綺麗に整えられたオールバックの髪にところどころ白いものが混じっている。しかしそれはみすぼらしさを一切感じさせず、彼の過ごしてきたであろう年輪を内に宿す叡知と共に感じさせた。黒い洋風のスーツに、裏が赤地のマントを羽織っており、素人目にも高価なものだとわかる。まるで絵画に描かれた、古い西洋の貴族のような服装だった。  そして何よりも印象的なのは、彼が浮かべる不思議な笑顔だった。威圧するのでは決してなく、それどころか安らぎすら覚えるような柔和な顔立ち。しかしだからといって気安さを感じるものではなく、一歩下がって拝みたくなるような……そう、神々に対するときのような畏敬の念を自然と感じさせる。 「貴方はどなたですか」俺は警戒心をわざと口調ににじませながら、彼に訊いた。「ここは私有地でこそありませんが、立ち入り禁止区域です。土地神様に敬意を払うつもりがあるのならば、今すぐ敷地から出てください」 「これは失礼しました」男性は優雅な一礼をして、非礼を詫びた。見た目通りの洗練された仕草だ。「無断で皆さんの前に現出しましたこと、まずはお詫びいたします。決してこの土地を治められるお方に害をなす存在ではありません」  深みのある渋い声だ。穏やかさと威厳を同時に感じさせる。 「故あって真名を名乗れず申し訳ありませんが、怪しい出自のものではありません。まずはこの迷宮を管理なさっている方にお目通りをお願いしたい」 「迷宮を管理って……いや、まあ土地を管理してるのはウチの家ですが。あの、貴方もしかして……魔族?」 「はい。主神派からはそう呼ばれています」 『ひいいいいっ!?』  俺は硬直するルゥの首根っこを引っつかむと、全力で後ずさりした。  最悪だ!  魔族とは、モンスターの中でも上位種にあたる存在だ。およそ400年前、彼らは他のモンスターたちを率いて主神に戦いを挑み、世界を真っ二つに分けるほどの大戦乱を引き起こしたという。今や魔界に封じられたとされる伝説上の種族を前にして、俺の背中に滝のような汗が伝った。  魔族が何故ここにいるのかはわからないが、丸腰の人間に勝ち目のない存在だってことは俺にだってわかる。そもそもどれほど低級なモンスターですら、人間ではマジックアイテムの加護なしでは絶対に勝つことができないのだから、魔族がどれほど恐ろしい存在なのか言うまでもないだろう。その実力たるや、主神の眷属である天使や、かつてこの地上を支配していた神々にすら匹敵すると伝えられている。  どうしよう。どうすればいい。絶対に敵わない。勝ち目はない。逃げ場もない。  このままじゃ絶対にふたりとも食い殺される、どうすれば……。  ぐるぐると回る思考の中で、俺は視線をさまよわせる。  そうだルゥだ。  小刻みに体を震わせて俺のシャツの裾をつかむルゥを見て、思考の中で何かが見えた。  こいつだけでも何とか逃がしてやらなくてはならない。たとえ昨日からの付き合いとはいえ、一度手を差し伸べて、さらに家族の前で面倒を見ると誓ってしまった。背負った荷物は最後まで背負いきらなくては。  俺はごくりと唾を飲み込み、震えながらも声を張り上げた。 「待て! 生贄は俺だけで十分だろう、こいつは見逃してくれ!」 「親方……!?」  すると魔族は、何故か困ったような表情を浮かべた。 「どういうことですか?」 「魔族ってのは、人間を食い殺して生き血を啜るんだろう? 精気を食うだけのただのモンスターよりも遥かに残虐で恐ろしい化け物だって、俺だって知ってる!」 「……それで?」 「どうかこいつは見逃してくれ、頼む! 俺の方がこいつよりも食いでがあるはずだ、自慢じゃないが精気だって人より多い体質みたいだからな。俺ひとり分の精気だけで腹いっぱいにはなるはずだ」  俺はルゥから手を離し、その場に膝を付くと頭を垂れた。  土下座が魔族に通じるかどうかはともかく、俺の誠意を何とか伝えたい。今俺の肩を揺さぶって早く逃げよう、と泣く小さな手の温もりを、失うわけにはいかない。 「なるほど。ですがもし……」魔族は尋ねた。「それでは満足できない、そのコボルトの娘も寄越せと私が言えば、貴方はどうしますか?」  途端に、魔族が全身からビリビリと大気を震わせるほどの瘴気を解き放つ。石壁をあっという間に腐食させるほどの邪気は、もはや凶器に等しい。ルゥが怯えた声を上げて、俺にすがりついてきた。  大丈夫だ。安心しろ、守ってやる。俺は一度助けてやると言った身内は、何があっても助けてみせる。 「闘う」俺は頭を上げ、精一杯の気迫を込めて魔族を睨んだ。 「たとえ丸腰でも構わねえ。ほんの一瞬だけでもアンタと戦って隙を作って、ルゥを逃がす。絶対にそうする」 「そのコボルトは、貴方のペットですか?」 「家族だ。昨日からの付き合いだが……」  それでも、家族は家族だ。  魔族は感情の読めない声で、俺に訊いた。 「もしも、そのコボルトを差し出せば、貴方は見逃すと言ったら……どうします?」 「ふざけるな」  差し出された手に縋りつきそうな自分を怒鳴りつけ、奥歯を噛みしめ、震える拳を握りしめて、瘴気の源に相対する。 「親からそんな教育は受けてねえ。自分を裏切って、親の面目も潰すくらいなら、どんな無様な死に様を晒してでも足掻いてやる」 「左様ですか、わかりました」  魔族はつかつかと俺の方に向かってくる。ビシビシと音を立てて、石畳の床がひび割れ、亀裂が俺たちに向かって走る。  ……だめだ、殺される。  いざとなると恐怖心が先に立ち、俺は思わず魔族から視線を切って、俯いた。  なんて情けない。所詮口だけの男には、誰ひとり助けてやることはできないんだ。  魔族は俺の頭を見下ろす位置に来ると、膝を折ってその場にしゃがみ込み、右手を差し出した。 「お立ちください。試してしまい、申し訳ない」  気付けば、魔族から漂っていた瘴気は掻き消えていた。  顔を上げると、魔族は彫りの深い顔立ちに、どこか親しみの持てる柔和な笑顔を浮かべていた。 「今の時代の人間を知りたくて、ついやりすぎてしまいました。本当に申し訳ない」  ……助かった? 「俺たちを食わないのか?」 「まさか。貴方は敬意に値する、私を前にしてあれだけの啖呵を切ってみせたのだから。誇りある魔族は、勇気のある人間を決して無碍には扱わないものです……というかですね、」魔族は困ったように頬を掻いた。「魔族が人間を食い殺すなんて、天使が吹聴した偽りですよ」 『え?』  俺とルゥは、困惑の声をハモった。 「だって魔族は残虐で好戦的で、人間を殺して生き血を啜るって、教科書にも書いてあるし……」 「いえいえ、我々は基本的に人間に友好的です。そもそも生態自体も貴方の言うところのモンスターと変わりません。精気さえ多少分けていただければ大丈夫ですし、摂取しなくてもそもそも不老不死ですので死にません。空腹は覚えますが」まあもっとも……と彼は低い声で続けた。「主神に与して敵対するなら容赦しませんけど」  まさか主神派の使徒じゃないですよね、と言われて、俺はぶんぶんと我ながらすごい勢いで頭を横に振った。  ……ここが極東で本当によかったと思った。世界の大半が主神と天使の支配下に治められた2016年の現代でも、この極東は土着の神々が自治を保っている地域のひとつだ。彼の言うところの『敵対』には当たらないだろう。 「ならよかった」にこりと彼は微笑んだ。笑うと意外と無邪気な顔立ちにも見える。  もっとも、彼の秘める戦闘力は先ほどの一件で十分垣間見えたが。やろうと思えば、手すら触れずに俺の首を刎ねることもできるだろう。 「先のお詫びに何かを差し上げたいが、生憎と私だけが先に目覚めてしまい、私の財を管理してくれている者はまだ封印の中にいるのです。現時点では無一文で……我が身を顧みずの浅慮な振る舞い、誠に申し訳ない」 「あ、いえ! いいですいいです、そんなの!」  俺は慌てて手を振って否定する。俺の望みは貴方がこのまま帰ってくれることだけです。ホントお願いします。 「だがそれでは……ふーむ。貴方ほどの勇敢な人間になら、私の娘を娶らせたいほどなのですが……」 「娘ェ!?」  魔族の女の子なんて恐ろしいものと付き合えるわけないだろ!! どんな恐ろしい怪物が出てくるのかと、思わず総毛立つ。 「実は既に先約で婚約者がおりまして……重ね重ね申し訳ない限りです」  セーーーーーーーーフ!! 「いえ、本当にいいですから! い、いやー……残念だなー! ぜひお会いしてみたかったんですが! さぞ美しい方なんでしょうね……!!」  とはいえ一方的に否定したら、この紳士の機嫌を損ねるかもしれない。できるだけ慎重にお断り申し上げる。  娘さんを褒められて悪い気はしないのか、紳士は笑みをより深くする。 「ええ、身内びいきで恐縮ですが、妻に似て美しいですよ。……それにしても貴方は実に謙虚な方だ。私の知るどの時代の人間にも、貴方のように勇敢で謙虚な方は稀です。貴方が今の時代の一般的な人間像なのでしょうか」  ええー。何を言うんだ、この人(?)は。  まあ……自分で言うのもなんだが、一般的ではないと思う。普通の人間は勝ち目のない絶対的上位の生き物に、啖呵を切ったりはするまい。勇気があるのではないと思う。単に、追い詰められたら何をするか自分でもわからないだけだ。昔からこの癖で、色々と割の合わない思いをしてきた。それでも治らないのだから、筋金入りのバカだと思う。  だからこそ、今の俺は何も背負わないように生きているのに。 「いえ……一般的ではないと思います。普通は命乞いするんじゃないかと。私も自分だけならそうしていたと思いますし」 「仲間思いなのですね」 「……そんないいものじゃないです」 「ふむ……」  紳士は何やら深く頷き、俺の顔を正面から見つめてきた。 「私は貴方が気に入りました。敬意に値する人物であると思います。何としてもその心に報いたい」 「ええっ……!? いや、その、ホントいいですからそんなのっ……」 「今しばらくお待ちを。私の配下の者が目を覚まし次第、お礼の品をお持ちしましょう。ついては、それまでこの迷宮に住まわせてはいただけませんか」  一番恐れていた事態がキタアアアアアアアアアーーーーーーーーーーーーーーッ!!!  やめて! それだけはやめて!! 自分の家の裏にこんなのが住んでると考えたらボクの小心なハートがブレイクしちゃうのおおおおおおおおおおおおッ!!!!!  しかもこれだとルゥに穴を埋めさせることもできない! つまりまだまだモンスターが増える可能性すらある! な、なんとか断らなくては……!! 「し、しかしですね! 今のこの国の法律では、資格なしでモンスターを住まわせてはいけないことになっているんです! ダンジョンを構えて、モンスターを住まわせるには、国が認めた資格がいるんですよ!」 「なんと、今はそのような世の中になっているのですか?」  目を丸くして驚く魔族紳士。いいぞ! いい傾向だ! 「そうなんです! だからこの迷宮は埋めなくちゃいけないんです! い、いやあ……本当に申し訳ない……!!」 「なるほど……して、その法は何のために存在するのですか?」  興味深げに問う魔族紳士。なんだろう、さっきから思っていたが、この人なんか今の世の中に疎い気がする。そういえば封印されていたとか言ってたか。  まあこの人の事情はいいや、どうせすぐお別れだし! 「ほ、ほら。モンスターが勝手に迷宮に住み着いて、無差別に付近の住民を襲ったりしたら困るでしょう? 何せダンジョン屋にいるモンスターみたいに、みんながみんな人間と平和に今の世の中でやっていこうって連中ばかりじゃないですから」 「理解しました。確かにその通りです、魔の者の中には獣同然の知性の輩もいますからね」紳士は深く頷くと、自分の胸にうやうやしく手を添えた。 「ではなおのこと、私にお任せください。こう見えて、私も強さには自信があるのです。このダンジョンに現出した魔物たちが人間を襲うことがないよう、私が統括いたしましょう」  あっれええええええええええええええええええええええええええええ!?  するとルゥが目を輝かせて俺を見上げた。 「素晴らしい提案ッス! これほど強い人がいてくれたら、いくらダンジョンを大きくしても平気ッス!! 親方、ぜひお言葉に甘えるッス!!」  ブッルウウウウウウウウウウウウウウウウゥタスお前もかあああああああ!!!  お前さっきまで震えてたじゃん! 何でそうホイホイ人を信じるの!? お人よしなの!? 騙され体質なの!?  ……あ、いや、騙され体質だったな。それも筋金入りの。畜生。 「いかがでしょう。叶うことなら、しばしの間と言わず、ぜひ貴方と末永くお付き合いしていきたいと考えているのですが……」  そう言ってにこやかに微笑む魔族紳士。  俺は困りに困って、究極の選択を下した。 「……家に帰って、親と相談させてください」  つまり、親に洗いざらい話してから、保健所に通報するってことですよ。  ひとつ不安があるとすれば……保健所から派遣されたモンスターバスターじゃ、この紳士に指一本触れられない可能性があるってことだけだが。  か、勝てるよね?  裏山で起きたことを母さんに報告したところ、父さんが帰宅するのを待ってから、ふたりで様子を見に行ってくると伝えられた。  俺としてはそんな悠長なことを言わずに一刻も早く通報したかったのだが、正式な土地の管理人は両親なのだから、その意思を優先すべきかと考え直す。あの紳士も伝承に伝わる魔族にしては、かなり温厚そうな人物に思えた。とてつもないプレッシャーをかけてはきたが、本人の言うところを信じるとすれば、決して害を加えるつもりではなかったという。もしかしたら平和的に話し合いで解決できるかもしれない。  というか、解決してくれないと困る。  母さんが早めに帰ってきてほしいと連絡してくれたおかげで、19時前には父さんが帰宅した。手短に母さんが何があったのかを伝えると、ふたりは何やら大きなダンボール箱を担いで裏山へと向かった。……なんだ、あの箱? 「いいなー、私も見たかったなぁ、生魔族」  穂香がとんでもないことを言いながら、小さくなるふたりの影を見送る。こともあろうに、こいつは自分も魔族を見てみたいから連れて行ってくれと駄々をこねたのだが、当然というかなんというか、留守番を命じられたのだ。 「ンなもん生涯見なくていいよ。しょんべんチビるぞ? 人生は平穏が一番だ」 「お兄ちゃん、もしかして魔族を見てお漏らししたの?」 「漏らしてねーよ!!」  危ないところだったのは言わないでおく。人間は圧倒的な強者に相対すると、生理的に尿道が開くというのは本当だった。  穂香と連れ立って居間に戻ると、準が4人分の紅茶を淹れていた。 「でも兄さん、生きて帰れて本当によかったよね。魔族っていうのは主神派が主張するほど悪い人たちじゃないのかもしれないよ」  紅茶のカップを差し出しながら、準が微笑む。  いやぁ、それはどうだろう。 「単に俺を騙して利用するつもりで、猫を被ったのかもしれねえぞ」 「だけど兄さん、魔族が人間を助けたって話は、実は意外と世界各地に伝わってるんだよ。それに主神派と魔王が戦った大戦争でも、魔王側に加担した人間はかなりいたって話だし」 「でも主神派は、それは魔族と契約した邪悪な背教者だって言ってるぜ」 「主神派は歴史の勝利者だからね。敗者側の魔族は全員異世界に追放され、現世を隔てるゲートも封印されたから……都合の悪いことはいくらでも押し付け放題だよ。僕はあまり主神派の言うことだけを信じる気にはなれないな」  確かに一方の言うことだけを信じるのもおかしいか。  仮にその一方というのが、この世界の現在の統治者であったとしても。 「しかしお前、やたらと魔族の肩を持つんだな。コボルトみたいなマイナーな亜人のことも知ってたし、どこで覚えたんだ?」  俺の問いに、準はひくっと顔をひきつらせた。 「ええと……それは」  コボルトの生態は人類にほとんど伝わっていない。もしコボルトが自由に鉱石を作り出せることがわかっていたら、今ごろコボルトは乱獲の憂き目に遭っていただろう。そんなマイナーな種族を一目で特定するというのは、並みの高校生にはできない話だ。 「準はモンスターテイマーを目指してるのよね」 「ちょ、姉さん! 何で言うの!!」  穂香の言葉に、準は腰を浮かせて抗議した。えっ、何それ初耳。 「モンスターテイマーっていうと、モンスターと契約を結んでダンジョンに居ついてもらったり、ダンジョンのマナがちゃんと循環するように調整したりするアレか?」 「うん……」準は伏し目がちに頷いた。「兄さんは……怒る?」  あー、はいはいはい……そういうことか。  どうやら準は俺以外の家族にはとっくに伝えていたようだ。俺にだけ言わなかったのは 「俺が反対すると思ったのか?」  こくん、と申し訳なさそうな顔で準は頷く。どうでもいいけど、こいつの顔でそういうしおらしい仕草をされると、何かに目覚めそうになるのでやめてほしい。 「ばーか。いらない気を回すなっての。俺がダンジョン嫌いなのは、俺の問題だ。他人の人生にまで口出しするつもりはねーよ」 「えっ!? 親方、ダンジョン嫌いだったんスか!?」  それまで無心にアップルジャムを舐めていたルゥが、弾かれたようにこちらを見上げてきた。 「兄さんは大学時代は冒険者やってたけど、モンスターにビビって辞めちゃったのよねー」 「ちょ、おま……」  邪悪ツインテールてめええええええええええええええええええええええ!!  何でそう、人が隠しておきたいことを暴露するかなあ!?  暴露した当の本人は、ウフフと楽しそうに笑っている。出たよ、邪悪ツインテール。  この妹はかわいらしい外見に反して、かなり性悪だ。他人を困らせてはその反応を楽しむという、とんでもない悪癖を持っている。はやく辞めさせたいのだが、何度矯正しようとしてもまったく治る気配がないのだ。 「親方は冒険者だったんスか!?」 「……そうだよ」  俺はしぶしぶと答えた。  ルゥはほへー、と何やら得心したように頷く。 「なるほど、そうだったんスね。言われてみればダンジョンへの足の踏み入れ方が堂に入ってると思ったッス。普通の人間は真っ暗な中に入るのは、どうしても躊躇するッスもんね」  こいつ、アホそうに見えて結構周囲を観察してるな。意外と知能は高いのかもしれない、金銭感覚が機能してないだけで。 「それに魔族さんへの対応も超カッコよかったッス。まさかあの状況で啖呵を切るなんて思ってもみなかったッスよ。正直シビれたッス!」 「兄さんは追い詰められると輝く人なんだよ」 「追い詰められない限り何もやらないけどね」  何故か得意げになる準と穂香。……どうしてお前らが嬉しそうなんだよ。  そもそも追い詰められないと本気出せないって、そんないいことじゃねーだろ。普段から本気出せて、そもそもピンチにならない奴の方が百万倍立派だと思う。  というか追い詰められないと本気にならない結果が今のニート生活なんですがそれは。 「あの魔族さん、とてつもないツワモノと見たッス。あれほどの存在を見たのはアッシも初めてッスよ。ぶっちゃけあの人にあの対応ができるんなら、恐れるモンスターなんて何もいないんじゃねーッスか? 何で冒険者辞めたッス?」  不思議そうに見つめてくるルゥの純真な瞳に、俺は返答に窮した。  まあモンスターは確かに怖い。怖いが、乗り越えられない怖さじゃない。  そういうことじゃないんだ。怖いのはもっと別のものだった。 「……性に合わないんだよ。ダンジョンに入って、モンスターを殺して、財宝を奪うって行為が」 「あー……」ルゥは納得したらしい。「そういう人もいるッスね」 「変なの。だってモンスターも納得してるし、モンスターはいくら倒されてもすぐにダンジョンのマナで蘇生できるのに。財宝だって、別に誰の懐が痛むものじゃないでしょ? 自然に湧き出てくるものなんだから」穂香は納得できない、というように首を傾げた。 「つまり兄さんは戦いが嫌いだってことなんだよ」  準は困ったような表情を浮かべながら、空になったみんなのカップに紅茶を注いだ。 「それもいいんじゃないかな、戦うことに向いてない人だっているよ。そもそもからして、今のこの平和な世の中でわざわざ戦いたいって人が少数派なんだから。僕は兄さんが優しい人でよかったって思うよ」  準は本当にイイ奴だ。惚れてまうやろ……俺が女ならの話だが。  穂香は何やらぶーー、と頬を膨らませている。 「へーたーれー。冒険譚とか聞かせて私を楽しませなさいよ。特に失敗談」 「ヘタレで悪かったな」  そういえば冒険者やってた頃は、こいつしきりにダンジョンの話をせがんできたな。穂香は冒険者やダンジョンに興味津々なのだが、土地神様の巫女をやっている都合上それができずにいる。戦って穢れに触れることはよろしくない、とかなんとか。 「姉さんは戦ってる凛々しい兄さんが好きなんだよね」 「ぶほっ!?」「熱いッスーーーーーー!?」  穂香が口に含んだ紅茶を盛大に噴き出し、正面に座っていたルゥの顔面にぶちまけた。 「いきなり何を言い出すのよ! 私がお兄ちゃんを好きだとか、そんなことあるわけないでしょ! キモッ!!」  顔を真っ赤にして抗議する穂香だが、準は穏やかに微笑みながら紅茶を啜っている。 「えー? 僕は戦ってる凛々しい人っていいよね、くらいのつもりだったんだけどー」 「そ、そうね……まあそういう凛々しい戦いぶり自体は嫌いじゃないけど」  頬を引きつらせて弟を睨みつける穂香。なんかチワワが吠えてるみたいでかわいい。  しかし穂香が俺を好きとか、笑えない話ではある。そりゃ小学生の頃にはどこにいくにもにーたん、にーたんと言ってついてきたもんだが。今じゃ悪態を突かれ放題ですよ、そりゃまあニートなんて実の肉親でも情けなく思うわな。 「目があぁぁ! 目がああぁぁぁぁ!!」  紅茶が目に入ってのたうつルゥを捕まえて、俺はシャツの袖で顔を拭ってやった。 「まあ、俺の話はどうでもいいだろ。もう何もかも終わったことだし、今更冒険者に戻るつもりもねーよ」 「……そっか」  穂香は椅子に座り直すと、どこか憮然とした表情でお茶の残りを啜った。 「親方、ごめんッス」  ようやく落ち着いたらしいルゥが、俺を見上げる。 「ん? 何が?」 「親方、ダンジョン嫌いだったんスね。勝手に迷宮っぽくしちゃって悪いことしたッス。アッシ、本当はもしこのまま日暮れまでにモンスターが出てくれたら、なし崩しにダンジョンを作れるんじゃないかって心のどっかで思ってたッス」 「……まあ、確信犯だろーなとは思ってた」 「それがとんでもないお方が出てきちゃって……アッシのせいで、親方は嫌な思いしたッスよね。なのに親方は、アッシをかばってくれて……」  こいつなりに申し訳ない、とは思ってたのか。  まあそれだけ聞けりゃ十分だよ。 「ばーか」  俺はルゥを膝の上に乗せて、頭を撫でた。 「ふぇ?」 「家族になったんだろ、お前。迷惑を掛けられても、それを支えてやってこそ家族ってもんじゃねえか」 「親方……」  ルゥの瞳がじわっとにじんだ。 「でもお兄ちゃん、ニートはさすがに迷惑だからとっとと就職してほしいんですけど」  穂香の心ない言葉! 俺のハートに153のダメージ! 俺のハートが瀕死になった!!  このアマ、容赦なく俺の心を切り刻んできやがる……!! 「ね、姉さん……大丈夫だよ、兄さんならきっとそのうち天職が見つかるよ」  フォローありがとう準、だが現状天職どころか、自分が何をやりたいのかすらわからない俺にとって、その言葉は軽く追い打ちだ。あっ、いかん。俺そうとう参ってるぞ。  俺がどよーんとした雰囲気を垂れ流しかけたそのとき、玄関が開く音が聞こえた。 「ただいまー」  親父と母さんだ。きっと紳士との話をうまく収めてくれたに違いない。  うん、気持ちが少し上向いてきたぞ! 「おかえり! ど、どうなった!」 「うむ!」  居間に入ってきたふたりは、満面の笑みを浮かべた。 「素晴らしい人格者だったので、ぜひこのまま住んでもらおう!」  ほげえええええええええええええええええええええええええええええええ!? 「ちょっと待ってえええ! 何で!? どうしてそうなったの、出て行ってもらうために魔族の人のところに行ったんだよね!?」 「ん? そんなこと一言も言ってやしないと思うけど。どんな人なのか、確かめに行っただけだよ。うん、すごくできた人だったねえ」  ……うん、そうだね。言ってなかったね。  言ってないけど、何でそもそも住まわせるって選択肢が存在すんだよ! 「法律違反だよ!? モンスターが湧く可能性を知りながら、ダンジョンとなりうる穴または建築物を建てたものはこれを罰するって、六法に書いてあるよ!? モンスターが湧いているのに、通報を怠っても犯罪になるよ!」 「じゃああの御仁を追い出したとして、次に来たモンスターが人間に敵対的で凶暴だったらどうするんだ?」  再び俺を諭そうとする親父。もうその手は食わねえからな! いつもいつも言い負かされると思うなよ! 「追い出したらとっとと穴を埋めればいいだろ! それで何もかも解決だよ!!」 「だが、ルゥはまた穴を掘るぞ? そこにまたモンスターが現れないと思うか? あの御仁も、ほんの数時間でやってきたというのに」 「ぐっ……」  ルゥが不安そうに俺を見上げてくる。  大丈夫だ、安心しろ。お前を追い出すという選択肢は、とりあえず今は俺の中に存在しない。 「あの人に住んでもらえば、ひとまず凶暴なモンスターが湧いて人間を襲うなんて可能性はなくなる。一番平和的な解決法だろう」 「でも犯罪だろ。じゃあ何か? 逆に聞くが、アンタらはあの魔族の人を法律違反を承知で住まわせる気なのか? そもそも土地神様から預かった土地に、勝手に魔族を住まわせていいのかよ」  ……どうだ! 俺はロジックに手ごたえを感じて、内心ニヤリと笑った。 「よくねえよな? それは背信行為だし、市民の義務にも違反する。だから……」 「だから凶暴なモンスターを招き寄せるかもしれない手を打つというわけだな? それが近所の人や、山菜取りに来た人に危害を与える可能性に見て見ぬふりをして」 「ああ、悲しいねえ。そりゃアンタ自身が手を下してないだけで傷害罪なんじゃないかねぇ。あたしゃ自分の息子がそんな非人道な奴で残念だなぁ」  こ、こいつらああ言えばこう言う……!!  なんて理屈っぽい連中なんだ!! 「兄さんって、ああいう理屈っぽいところがパパとママそっくりよね」 「う、うん……そうかも」  ヒソヒソ声が聞こえてるぞ、シスター&ブラザー。 「じゃあアンタらはどうすりゃいいと思うんだよ! どうやったって犯罪になるだろうが!!」  すると母さんと親父は、顔を見合わせてニヤァと笑みを浮かべた。  ……しまった、地雷を踏んだ予感がプンプンする!  やっぱりいい、と口にする前に両親はとんでもない一言を投げかけてきた。 「誠一郎。お前、ダンジョンを運営しなさい」 「な、何言ってんの? ダンジョンを運営するには、資格が必要なんだぜ? 無資格じゃダンジョン管理者にはなれないんだ」  内心の動揺を抑え、俺は「ふぅやれやれ無知な者はこれだから困る!」と言わんばかりに首を振った。 「それにダンジョンっていうのは、ただ穴を掘ってモンスターが住めばいいってもんじゃない。ダンジョンのマナからモンスターが生まれ、侵入した冒険者がモンスターに精気を吸われ、モンスターが余剰の精気をマナとしてダンジョンに還元する。そのサイクルが重要なんだ」  そう、ダンジョンとはひとつの生き物のような存在だ。モンスターの生産、冒険者の捕獲、マナへの還元、そのうちのどれかが途絶えれば、ダンジョンは成立しえない。そして現在の科学全盛の世の中で、その状況が自然に成立することはまずない。  だからこそひとつの職業が生まれる。その名も『ダンジョンマスター』。財宝を求める人間と、住居と食物を求めるモンスターを取り持つ調整者。 「でもこの中の誰もそんな資格持ってないだろ? そもそもアレは取るのが超難しいし、当たり前だよな。だから……」 「さすがに詳しいな、誠一郎」  母さんは薄く笑うと、手に提げていた紙袋から一冊の本を取り出した。……あれ、なんかその表紙、見覚えが……。ってああああああああああああああああ!!  俺はひきっと唇を引きつらせた。そんな俺を見て、母さんは言う。 「さすがダンジョンマスターを志望したことがある奴は言うことが違う」  本のタイトルは『誰でもなれる! 目指せダンジョンマスター』。俺の部屋の本棚の一番奥に厳重に封印していたはずの職業ガイドだった。 「ええ!? 兄さん、ダンジョンマスターになりたかったの!?」 「ち、違う! 誤解だ、それは去年就活に失敗してヤケになったときに、たまたま気の迷いで買っただけで……」  嘘だった。大学3年のとき、冒険者として行き詰まりを感じ始めたときに、本屋の就職活動フェアの棚に見つけて、思わず手に取ったのだ。  だが本を読むうちに、実はダンジョンマスターが誰でもなれるようなものとは程遠い、かなり高度な国家資格であることを知った。さらにダンジョン経営は広い土地や数百万もの準備資金が必要な自営業でもあるとわかり、俺はその道を諦めたのである。  国家公務員T種よりもさらに難しい試験と、自営業としての負担まで負わされる職業なんて、誰が目指すものか。  冒険に面白さを感じていた頃には、こんなにスリリングで小遣いまで稼げるスポーツなのに、どうしてダンジョン屋の数はこれほど少ないのだろうと感じていたが……さもありなんである。そもそもダンジョンマスター自体の門があまりにも狭く、そしてハイリスクすぎるのだ。  そんな危ない橋を渡るくらいなら、素直に公務員になった方がマシだ!  ……と、考えた俺は、なりたくもない公務員試験の勉強を始めてしまった。  つまり、俺の夢は手を付ける前に挫折したわけだ。  そんなとうの昔に忘れ去ったはずの選択肢が、俺の後ろを追いかけてきた。しかも俺にとってある意味一番の天敵である、両親というジョーカーを伴って。 「お前がダンジョンマスターになれば、問題は何もなくなる。ここに書いてあるな? 『もしも既にダンジョンを所有する者が、ダンジョンマスター資格を後付けを取得した場合は公益性が優先され、特例措置が下される』」  この場合の特例措置とは、ダンジョンマスター資格を取得した者は、最初から資格を持っていたことにできるというものだ。つまり土地に穴を掘ってモンスターを住まわせたとしても、後から資格さえ取れば犯罪には問われない。  あまりにもダンジョンマスターを目指す者が少ないので、特例措置を取り入れて緩和を目指した結果だという。世のダンジョン屋の数を考えると、成功しているとはとても言えないと思うが……俺にとってはドンピシャリで渡りに船だ。 「これなら誰も損はしない、むしろ全員が得をすると思うが?」 「パーフェクトな提案だと思うよ、アンタにとってもね」  なるほど、確かにこれなら犯罪には問われないし、あの魔族の御仁もルゥも追い出す必要はない。しかも俺の就職先も見つかる、イイことづくめだ。  俺の将来がその時点で確定してしまうという一点を除いては、だが。 「いいじゃない、それ! 私もそういう経営とか携わってみたい!」  ハタで聞きながら、目を輝かせる穂香。こいつは巫女のくせに金勘定が大好きである。通っている学部は経営学部、趣味はプロレス観戦。ホント生臭いなお前。 「なっちゃおうよ、お兄ちゃん! 準もモンスターテイマーになりたいって言ってるし! ね、準? ……準?」 「に、兄さんと経営……一緒に経営……えへへ」  準は何やら締まりのない顔でブツブツと呟いている。どうしたんだお前。 「……キモ」穂香がぎょっとした顔で一歩距離を取った。まあ気持ちはわかる。  その横では、ルゥが尻尾を全力で左右にパタパタ振って、期待の眼差しで俺たちのやりとりをうかがっていた。  って、完ッッ全にアウェーじゃねえかあああああああああああ!!!  ……おおおおお、落ち着け、俺。こんな案はガバガバだ、いくらでも拒否できる! 「その試験、どれだけ難しいか知ってるのか!? あのな、言っておくけど」 「国Tより難しいそうだな」  わかってんじゃねえか! 「そうだよ、今受けようとしてる国Uより難しいよ! 去年国Uに落ちた俺じゃ無理無理無理のカタツムリだよ!! しかも試験日なんて公務員試験より前で」 「試験はペーパーのみで試験日は来年の4月、ちょうどあと半年だな」  そこまで調べてんのかよ! 「そうだよ、もう全然時間足りねえよ! だから」 「じゃあ試験に合格できない場合は、家を出てもらうから」  ………………………………。  パードゥン? 「え……あの……?」 「今更でなんだが、ウチにはニートを食わせる余裕はない。合格できなかった場合は、そのまま家を出てもらう」  親父は無慈悲な宣告を突き付けてきた。  いつ言われるかとドキドキしながらこの1年を生きてきたが、今かよ!? よりにもよって今それを言うのかよ!! 「あ、あの……ニートがもしマズければですね、バイトとか一般企業への就職とかをしてですね、家にお金を入れるという方向もあるかな、なんて……」 「ダメだね、認めないよ」 「この家で暮らしていきたければ、ダンジョンマスター試験に合格すること。それが今この家にとって必要な貢献だと私は考えている」  下手に出た俺をバッサリと切り伏せるマイペアレンツ。 「ちょ、ちょっと待ってよ、パパ、ママ! そんな、いきなり追い出すなんて……」 「そうだよ! そんな可哀想な……!! あ、でも路頭に迷った兄さんを扶養するとかそれはそれで……?」  フォローを入れてくれる穂香と準だが、母さんたちにはその声は届かないようだ。というか準お前、働いてまで俺を支えてくれるなんて……本当にイイ奴だな。  大丈夫だ、俺は絶対お前に負担をかけたりしねえ! この運命、跳ね返してみせる!  そう……最大の問題を指摘することでな! 「待った! アンタらは一番大切なことを忘れている! アンタらの策には重大な欠陥があるぞ!!」 「ほう、言ってみたまえ」 「資金だ! ダンジョン運営には初期投資がいるんだ、それも最低数百万という大金がな! その金を一体どこから融通してくるというんだ!?」 「ほら」  母さんは紙袋から無造作に銀行通帳と印鑑を取り出すと、机の上に放り出した。 「500万円ある。お前がダンジョンマスターになったらくれてやるよ」 「……え?」  俺はぽかんとして通帳を見つめ、震える手で最新のページを開いた。  50,000,000という金額が印字されている。 「……なに、この金……」 「本来は私が退職した後に、母さんと過ごすための老後のたくわえだったんだがな。お前の将来のために使うなら、その方がいいだろう」 「い、いやいや……待ってよ。それはふたりのお金じゃないか? そんなのを俺のために使うなんて……」 「誠一郎」  父さんは俺の目を見て、真面目な顔で言った。 「お前たちが未来に向かって巣立つためであれば、私たちはいくらでも投資をしよう。それが親として、お前たちをこの世に送り出した責任だ」 「と……父さん……!」  ジンと来た。  親の愛、その重さを久々に思い知った。 「お父さんの言う通りだよ、それに」  母さんも親父のセリフに、深く頷く。 「ぶっちゃけアンタをここまで育てるためにかかった金は、これの十倍以上なんだが」 「国立大とはいえ、大学も行かせたからなあ」 「ぐはああああああああああああああああああああああっ!」  マジで血を吐くかと思うほど鋭いセリフだった。  ごめんなさい、ダメな息子でごめんなさい。親の金を無駄食いするだけの息子で本当にごめんなさい。効いたぜ……ハートにズシンと効いた、再起不能になるほどな。  親の愛だけでなく、金の重さをとことんまで思い知らされたわ。 「わ……わかりました……。ダンジョンマスター、目指させていただきます……」  俺は机にひれ伏し、震える声でそう宣言するのが精いっぱいだった……。 「ひゃっほーーーーーーーーーーーーーーーー! やったあ、頑張れお兄ちゃん! ニート脱出の第一歩だよ!」 「わーい! ガチダンジョンッス! これは腕が鳴るッスね!! アッシも掘って掘って掘りまくるッスよーーー!!」  ああ、背後で歓声を上げる妹やルゥの声があまりにも遠く聞こえる。 「まあ、そうがっくりしなさんな。何もお前の将来をこれだけで縛るつもりもない。もしもダンジョンマスターになってみて、自分には無理だと思ったらきっぱりやめてもいい。そのときは、母さんがどうにかしたげるよ。もちろん、500万を返せとも言わないさ」  ……本当だな? 忘れねーぞ、その言葉。  とりあえず、明日は参考書を買いに行かなくちゃ……。